大仏の呪い
地震から 434 日目
豪雨から 170 日目
OECDワークショップ in 大阪
2日めのアクティビティーです
「タイムマシン・メガネ」
〜AI時代の寺子屋へようこそ〜
未来の教育を考える際に
日本の風土で育った
日本ならではの教育を
見直してみることは効果的です
寺子屋のシステムに学びましょう
寺子屋の歴史は室町時代に遡ります
寺院でおこなわれていた師弟教育が始まりです
当時は寺に寝泊まりする形で勉強していました
江戸時代に最も盛んにおこなわれるようになりました
大都市だけでなく農村部にも寺子屋が増えました
全国各地で呼び名は異なっていたといわれています
明治政府の「学制」に伴う小学校建設により
寺子屋は姿を消しましたが
その直前には1万以上の寺子屋が存在していたようです
当時の日本の人口は3,400万人
現在の4分の1程度ですが
全国の公立小学校数は2万校程度なので
いかに普及していたかがわかります
制度的には現代の小学校に似ていて
早い子では5歳ごろ
一般的には7〜8歳で通い始め
6年ほどで卒業します
登校時間は午前8時ごろ
下校は午後2時ごろです
午後2時は昔の呼び方で「八ツ時」
寺子屋から帰ってはらぺこの子らが食べるのが
「御八ツ」のはじまりです
農民の子どもには「百姓往来」
商人の子どもには「商人往来」
職人の子どもには「番匠往来」など
それぞれ教科書「往来物」が用いられ
個別最適な学びが実践されていました
また
一方的に教師の授業を聞くのではなく
同じ教室にいる仲間たちに
年齢を超えて教えてもらったり教えたりしながら
生徒たちは主体的で対話的な学びを行なってきました
こうした学びが功を奏し
幕末には成人男性の識字率は70%を超えました
当時ロンドンでは20%
パリでは10%未満であったことを考えると
寺子屋の果たした役割は大きかったといえます
親に甘やかされ育った筆子(生徒)に対して
師匠が礼の教育やしつけに苦闘していた
という記述も残っています
ある寺子屋の校訓は「余力学文」
『論語』の「行有余力、則以学文」
(行いて余力あらば、すなわちもって文を学べ)
礼儀作法を心得たものでないと
学ぶ資格はないとしています
細かくは
着座畳に手をつき額をさげて心静に礼いたし席ニ先々よりすわり可申事
(正座して畳に手をついて額をさげ、心静かに一礼して来た順に着席しなさい)
客入来之内ニはものよみ高声無之様ニ可為事
(来客中は大声で素読しないようしなさい)
大小便壱人宛限り可出事
(大便・小便を催した時は、ぞろぞろと行かないで一人ずつ行きなさい)
今の高校生にも言いたいようなこと
またモンスターペアレンツには
喧嘩口論ハ皆自分之悪ゆへ内々親々取上ざる事
(筆子同士のけんか口論は皆本人が悪いから起きるので、親はいちいち取り上げてはならない)
とバッサリ
そして続いては
教科のメガネでお散歩する
「おさんぽメガネ」ワークショップ
例えばエストニアでの教育実践
事なる教科の先生といっしょに
森の中を散歩する授業があります
教師はありとあらゆるものから
教科の問題を組み立てます
数学「このままの速さで歩き続けると
あと何分で目的地に着くかな?」
歴史「今は森だけど昔は沼地だった
どうして変化したかわかる?」
美術「緑は何色あると思う?」
物理「森の中で声を出すと
どんなふうに広がっていくかな?」
今日はこの大阪城バージョンです
私も化学のメガネで参加しました
「大阪城の屋根は緑色だけど何でできていると思う?」
「瓦!」「トタン!」「プラスチック!」
「ブー 銅でした 10円玉といっしょです」
「でも色が違う…化学変化したの?」
「そう!空気中の水と二酸化炭素に反応したよ
炭酸水酸化二銅に変わったよ
緑青ともいうんだ
奈良の大仏さんも同じだよ
ところで奈良に都があったのは
710年から784年
わずか74年でせっかく作った都を捨てています
これはなぜですか?社会の先生」
「ひとつには寺院勢力を排除するためといわれています」
「理科の目で見るともうひとついわれている
呪い説も信憑を増してきます
奈良時代後半に流行した疫病によるものです
ところで電気のない時代にどうやって
大仏に銅のメッキを施したと思いますか?
唯一液体の金属である水銀に銅を溶かします
そして大仏にポッキーのようにコーティングします
やがて水銀が蒸発して
銅だけがメッキとして残るのです
ところで再び社会の先生
水銀が蒸発して都を包むとどうなりますか?」
「水俣病のような公害病が発生します」
「そう!奈良時代後半に起こった疫病とは
水銀中毒であると考えられます」