日誌

新規日誌7

追跡ハイク

今年度3回目のわくわく教室は追跡ハイクでした。4人ずつ、5グループに分かれて約3キロのコースをコマ図を頼りに歩きます。スタート前に、津幡署の警察官の方から、交通安全や防犯についてのお話を聞きました。途中のチエックポイントで出される問題をグループで相談しながら解きました。ゴール後は、パトカーの試乗もさせて頂き、貴重な体験をすることができました。

海辺の植物観察

今年度2回目のわくわく教室は、石川県立自然史資料館 副館長 中野真理子先生をお招きし、海辺の植物観察を行いました。高松の海辺やサイクリングロード沿いを歩きながら、植物を観察したり、中野先生の解説を聞いたりしました。海辺の植物にハマヒルガオなどハマのつく名前が多いことや、外来種の植物がたくさん生えていることなど、いろんなことに気付かされました。最後に「たくさんの植物の名前を知ることができてよかったです」と感想を述べていた子のように、これからも植物に興味をもつ子が増えてほしいと思います。

 

 

高松歴史街道ウォークラリー(中止のお知らせ)

 今年度こそ開催を、と計画を進め、参加者の募集を始める予定にしていたウォークラリーでしたが、この頃の感染拡大状況を鑑み、学校運営協議会会長及び伝統文化部で協議の結果、残念ながら中止と決定しました。楽しみにしていた皆様にはお詫び申し上げます。何卒ご理解いただきますようお願いいたします。

「高松歴史街道」ポイント紹介⑦

金津家住宅

         

 古い町並みを残す旧能登街道の通りに面している住宅で、戦前から残る家屋である。改築の際には昔ながらの格子を残し、街道の景観に配慮した造りとなっている。内部は、吹き抜けの美しい小屋組の形状を見ることができる。

「高松歴史街道」ポイント紹介⑥

額神社(ぬかじんじゃ)

             

 額神社は、昔から高松の鎮守として崇められてきた。ここは、加賀国より能登国に通じる街道で、街道の南、河北潟より七窪を経て当社に至る街道は、「おまんぎつね」が出る所であり、旅人の安全を祈願したと伝わる。英之社は、桜井三郎左衛門を祭神とする。桜井三郎左衛門は、天正12年末森合戦に藩公前田利家に協力した人物であり、その功績により高松の宅地の税を免除されたと伝わっている。 嘉永3年に拝殿を建立し、古宮より現在地に遷座した。(神社由緒書より)

 また、ここは宿場町でもあり火災も頻発しており、火事除けに赤飯を神に供えた後で各家に配る慣わしがあった。しかしある年、赤飯の代わりに清酒を配ったところ大火事が発生したため、神様の怒りに触れたのではないかと畏れ、もとの赤飯に戻したのだという。

「高松歴史街道」ポイント⑤

鶴 彬 句碑(歴史公園内)

         

鶴 彬(つる あきら)本名:喜多 一二(かつじ)は旧高松町出身の川柳作家です。

 彼は8歳の頃に父を亡くし、その後叔父の養子となりました。仕事を終え読書にふける日々を送っていた彼は、読書で得た知識を通して自分の思いを言葉で表現してみたいと考えるようになり、川柳を作るようになりました。

 川柳に熱中した彼は、地元新聞の柳壇を独占する勢いで作品を創作するようになり、高い評価を得ましたが、一方で反感も持たれることとなりました。不景気の影響によって生活に窮した彼は大阪に出て働き、その頃から鶴彬の号を使い始めます。

 鶴彬は、川柳雑誌『川柳人』上で発表した作品が反戦的であるという理由で警察に連行され、その取調べ中に赤痢を患い、昭和13年に息を引き取りました。享年29歳でした。

 鶴彬は、日本が軍国主義に邁進していた時代にその社会的矛盾を風刺した川柳を発表したことから、一般的に「反戦」の川柳作家という評価が強調されています。しかしながら、無力な人々の心の救いを川柳に見出そうとしたことや、格下に見られていた川柳を大衆のための文芸に引き上げようとしたことも非常に高く評価されています。 

 この句碑は昭和47年に鶴彬の友人や同級生などの有志の手によって、高松児童公園に建立され、その後歴史公園に移設されたもので、「枯れ芝よ団結をして春を待つ」が刻まれています。

(かほく市ホームページより)

 

 高松小学校では、毎年「鶴彬を顕彰する会」のご協力により、講師をお招きして鶴彬さんについて6年生が学んでいます。

「高松歴史街道」ポイント紹介④

<高松歴史公園>

 のと里山海道高松インターチェンジを降りて北に進むと、高松歴史公園と呼ばれる小さな公園があります。

 

◆高松口銭(こうせん)場跡の碑(高松歴史公園内)

  加賀藩は、街道の整備を進め、沿道の主要な村を駅(うまや)に指定し、駅馬の制度を定めていました。高松も能登方面に至る表街道の宿場駅のひとつでした。宿場駅には物流の拠点として各地から物資が集まり、荷問屋と呼ばれる人々の手によって各地の駅へと運ばれていました。口銭というのは、物資にかけられる手数料・運送料・保管料などを意味していました。

 高松は海上交通の面でも加賀・能登を結ぶ重要拠点であり、江戸時代中期以降には取り扱う物資の量も増えました。これらの口銭の徴収を行っていた場所が、口銭場です。

「高松歴史街道」ポイント紹介③

<高松道路元標>

 額神社近くに、「高松道路元標」がある。旧能登街道の高松地区の中央辺りにある道しるべで、大正12年に設置されている。金沢までの道のり、加賀方面の津幡、能登方面の大海までの道のりが刻まれている。現在ある道標は平成13年5月13日還暦を迎えた人たちの記念として建立されたものである。

高松に残る昔話

 高松小学校の図書室前の廊下に、高松の昔話が掲示されています。題名は「覚了さんとムジナ」です。紙芝居のようになっています。物語の舞台となった具体的な場所などはわかりませんが、ほんわかとした何か憎めないムジナのお話です。

 

 

 

 

「高松歴史街道」ポイント紹介②

「旧能登街道 宿場町」

 口銭場があったことが示すように、藩政期には旧高松町から宝達志水町の宿を通って能登へと至る街道がありました。高松の駅(うまや)はその要衝として多くの宿が並び、能登と加賀を往来する旅人で賑わっていました。その家数は寛政10年(1798年)には160軒、安政2年(1855年)には439軒と、その増加率は津幡の駅(うまや)を凌ぐほどであったといいます。のちに高松は商工業の町として大いに栄えることになりますが、その原点は藩政時代の宿場にあったと考えられています。南町・中町・上北町と呼ばれる町内会の大通りは能登街道の宿場町として賑わっていた頃の面影を残しています。 (かほく市ホームページより)