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【教職員リレーブログ】自由に…私の過去
こんにちは。明倫1年目、明倫高校OB 保健体育科のMです。
前の方からも「自由に書いて良いよ~」と言っていただいたので、「私の過去(教師を目指したきっかけ)」について書いていこうと思います。長いですがお付き合いください。
私が初めて教師を目指したのは中学3年生の時でした。
当時の担任の先生が体育の先生であり、卒業式の時に
「体育の先生を目指そうかな・・・」と最後に話をしたら、
「俺も勧めようと思ってた」と言われたのが最初のきっかけでした。
その後、なんとなく、ぼんやりと体育の先生になりたいなと思いながら明倫高校に進学し、サッカーに明け暮れる日々を送っていました。
高校2年生の時にサッカー部の顧問が変わり、私が小学校の時に選抜でお世話になった監督が保健体育科の先生として赴任してきました。当時の3年生が引退し、私は次のキャプテンに任命されました。その頃のサッカー部は各学年20名を超える大所帯で、練習メニューや試合のメンバー等はすべてキャプテン、副キャプテンが決めるというスタイルでした。そのため、毎日昼休みに「体育研究室」に行き、監督と話し合いを行っていました。
時には、後輩が朝の登校時「グリコ」をしながら階段を上ってきたら遅刻した、後輩の部室が汚いなど、キャプテンの管理不足と怒られたこともありました。当時は「なんで自分が・・・」と思うことも多々ありましたが、そこから全体をしっかりと把握し、何をしなければいけないのか、組織に属するとはどういうことなのか等、様々なことを学びました。
次第に私は「監督のような先生になりたい」と思うようになり、本格的に保健体育科の教師を目指すようになりました。
大学もスポーツ系の大学に進学し、その間も明倫高校サッカー部の外部コーチとして指導に関すること、社会人としての人間性などたくさんのこと教えていただきました。大学3年時には教育実習生として明倫高校で初めて授業もしました。教育実習も無事に終えたその年の夏、「監督が亡くなった」と監督と親交が深かった私の父から連絡を受けました。病気を患っていたことは知っていましたが、まさか亡くなるとは思っていなかったので頭の中が真っ白になったことを今でも覚えています。監督から受けた恩を何も返すことができないまま亡くなったしまったことが非常に心残りです。そこからは、私が監督から学んだこと、教わったことを次は私が伝えていくことで恩を返していこうと思い、大学4年時は就職活動を一切せずに、教員採用試験一本に絞って対策を行いました。しかし、そう簡単にはいきませんでした。結果は「不合格」。また、次年度へ持ち越しとなりました。合計4回、教員採用試験に挑戦し、やっと合格できました。勉強が苦手な私からすると、上出来ではないでしょうか・・・(笑)
教員採用試験に合格するまでの3年で、講師として2校勤務しました。部活はサッカー部、女子バスケ部、女子テニス部、ハンドボール部とたくさんの経験をさせていただきました。その経験も私の力となり、教員採用試験合格の要因の一つではないかと思っています。
そして、「令和6年度石川県教育委員会 人事異動」が発表され、まさかの母校。
嬉しいような、もっと経験を積んでから戻って来たかったような・・・と最初は複雑な思いでした。
しかし、今はOBである私だから伝えられること、私だからできる仕事がたくさんあるように感じています。
人は一人として同じ人間はいません。私も憧れの監督と同じ指導はできません。しかし、私らしく私が受けた恩を皆さんに返していきたいと思います。
長くなりましたが、これが「私の過去(教師を目指したきっかけ」です。
次の方は「過去」の繋がりから、「過去の栄光」についてお願いします。