ギャラリー 雪章へようこそ

石川県立工業高等学校  ギャラリー雪章運営委員会                     最終更新2015.1.7


近代陶芸の巨匠 板谷 波山 映画化されNHK-BSで放映されました 


 本校128年の歴史の中で、多くの卒業生・本校関係者が美術工芸界で活躍されています。本校で教鞭を執られた方々や学校ゆかりの方々の作品を収蔵し、展示しているのがギャラリー雪章です。

目次
1,ギャラリー雪章の生い立ち
2,初代校長 納富介次郎と作品
3,海外のポスター
4,開校当時の教師陣と作品
5,県工のオリジナルカラーと由来
6,漆芸分野の先輩方の紹介
7,彫刻作品
8,絵画作品
9,茶道具

 
1,ギャラリー雪章の生い立ち (生い立ちと所蔵作品)  
 
 昭和48年11月に完成した特別棟の3階がギャラリー雪章です。校章が雪の結晶からデザインされていることから、応援歌の中でも雪章健児の ・・雪章旗のもと・・があり、同窓会でも雪章新聞・雪章会など、雪という文字を加わることが、県工の合い言葉のように親しまれています。

      
ギャラリーが昭和48年に完成するまで、建っていた武道館について紹介します。

 武道館(旧剣道場)昭和13年から47年まで雪章健児の鍛錬の場として、ある時は作品陳列にも用いられました。この武道館は八日市屋清太郎氏が田辺校長の要請にこたえて、個人で寄付されたものです。県下に例を見ない優れた構造の剣道場でしたが、特別棟建設のため取り壊されました。解体の了承を得た後、村田現作(大正9年窯業卒)の製作によるこの模型を贈り、感謝の意を表したということです。

村田 現作 作 「武道館模型」 八日市屋清太郎 氏

2,初代校長 納富介次郎と作品(のうとみ かいじろう) 
  初代校長 納富 介次郎先生は、幼少より書画詩歌、皇典などを父から学び、17才で長崎の木下逸雲らから南宗画を学んでいます。号を介堂といいます。初代校長 納富 介次郎先生の作品を紹介します。

納富介次郎胸像 吉田三郎作 上海渡航出発前の介次郎

彫刻家 吉田三郎は納富像の他に板谷波山、本校卒業生で初の校長に就任した青木外吉の胸像を制作しました。

「竜の図」 軸 「竜の図」中央部拡大
「仲秋山水」 軸と中央部拡大

3,海外から取り寄せた参考作品             
 「Divan Japonais」 Henri Toulouse- Lautrec 1893
「MOULIN ROUGE」 Jules CHÉRET 1889

「Divan Japonais」 「MOULIN ROUGE」

4,開校当初本校で教鞭をとられていた先生方の作品    
[諏訪 蘇山] すわ そざん 
嘉永4年5月25日金沢市馬場6番町に父 藩士諏訪重左衛門好方、母てい の子として生まれる。
明治20年~明治29年 彫刻科助教諭  大正6年 帝室技芸員 

「葡萄透かし花瓶」 「布袋香炉」 110周年記念茶会、煎茶席に使用

[北村 弥一郎] きたむら やいちろう 
明治元年 金沢生まれ。
明治30年~明治34年 窯業科長 大正10年 工学博士(京都大学)

納富介次郎と同様に北村もワグネルに
多くを学び、科学的根拠を重視した指導
を繰り広げた。
北村弥一郎とワグネル

「結晶釉花瓶」

[竹内 吟秋] たけうち ぎんしゅう 
天保2年 加賀市に生まれる。(初名 源三郎)嘉永3年竹内家を継ぐ。
明治27年~明治40年 窯業科教諭 
明治40年まで教鞭を執り、明治九谷の発展に尽くした。

竹内 吟秋 「赤絵鶴寿老人花瓶」

[板谷 波山] いたや はざん 
明治5年3月3日茨城県下館市の醤油醸造業の家に生まれる。本名 嘉七 
明治29年~明治36年 木彫科・窯業科教諭
昭和28年 文化勲章

「少年少女像」 「鴨刻花瓶」
「柘榴文花瓶」 波山と同僚たち(前列右端が波山、中央は山田敬中)

 5,「安達 陶仙」(あだちとうせん)の黄色は県工の色。   
(県工オリジナルカラーについて)

  本名 正太郎 明治5年大聖寺藩槍術指南番の家に生まれる。明治23年陶画科速成科を卒業後、九谷焼の技術を松本佐平に、顔料製造法を友田安清等に学ぶ。明治37年から昭和10年までの長きにわたり本校窯業科で後進子弟の教育に携わる。陶仙の黄色とは正木東京美術学校長からの依頼で、中国乾隆期の色釉の再生を幾つか成し遂げた中の「尊式乾隆黄花瓶」の金黄色を指す。

「尊式乾隆黄花瓶」 左、陶仙作 「鈞窯釉花瓶」右、オーストリア製花瓶
 
陶仙と生徒たち(窯場で、中央白髭が陶仙)  

6,漆芸分野の先輩方の紹介               
 [松田 権六] まつだ ごんろく
 明治29年4月20日 金沢市大桑町生まれ。大正3年3月 漆工科描金部卒業。
大正8年3月 東京美術学校を卒業、5年制(六角紫水教授宅に寄宿)に進む。昭和2年9月 東京美術学校助教授就任。昭和18年教授就任。昭和30年 重要無形文化財「蒔絵」保持者。昭和51年文化勲章授章。昭和61年6月15日心不全のため逝去。

松田 権六 「春秋蒔絵丸盆」

[大場 松魚] おおば しょうぎょ
 大正5年3月15日 金沢市大衆免井波町生まれ。本名 勝雄昭和8年3月 図案絵画科卒業。
父宗秀にきゅうしつを学び、昭和18年金沢市県外派遣実習訓練生として松田権六に師事する。第59回伊勢神宮遷宮の神宝製作や中尊寺金色堂保存修理の漆芸技術主任、金沢美術工芸大学教授を勤め、昭和57年重要無形文化財「蒔絵」保持者となる。平文(ひょうもん)を得意とする。鶴文棗は創立70周年寄贈作品。平成24年6月21日逝去。

大場 松魚 「鶴文棗」

[寺井 直次] てらい なおじ
 大正元年 12月1日金沢市竪町生まれ。昭和5年 漆工科描金部卒業。
昭和10年東京美術学校工芸科漆工部卒業。同年(財)理化学研究所入所、金胎漆器・漆工芸材料を研究。昭和25年石川県立工芸高等学校塗装科主任教諭として奉職。昭和43年石川県立工業高等学校教頭。昭和47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長に就任。昭和60年重要無形文化財「蒔絵」保持者となる。ボディにジュラルミンを用いる金胎漆器で文様に卵殻を用いることで有名。平成10年逝去。

寺井 直次 「千鳥文蒔絵箱」

「鶴図二重箱」 は本校で漆芸を教えた先生方三者の合作です。

三者合作 「鶴図二重箱」 前 大峰 小松 芳光 作 「牡丹丸盆」

制作者3名の紹介
[前 大峰] まえ たいほう
昭和26年~35年塗装科講師。昭和30年 重要無形文化財「沈金」保持者。本校窯業科を卒業し、重要無形文化財「沈金」保持者である前史雄の父である。
[小松 芳光] こまつ ほうこう
昭和15年~昭和26年塗装科非常勤講師。金沢美術工芸大学の創設に携わり、教授となる。
[魚野 自醒] うおの じせい
昭和22年~昭和28年塗装科講師を務める。
7,彫刻作品                      
[吉田 三郎] よしだ さぶろう
 明治22年5月25日 金沢市生まれ。明治40年 窯業科製陶部卒業。
在学中は板谷波山、波山が金沢を去った後は、青木外吉に多くを学ぶ。卒業後、東京美術学校に学ぶ。昭和6年、文部省より古代彫刻研究のため、フランス、イタリア、北米へ留学を命ぜられる。帰国後、帝国美術学校彫刻科教授。昭和30年日本芸術院会員。昭和37年逝去。

吉田  三郎 「農夫」

[村上 九郎作] むらかみ くろさく
 慶応3年小松市京町の彫り師の家に生まれる。号を鉄堂と称し、明治20年第2回勧業博覧会に出品した作品の技量が認められ、明治23年から26年まで本校彫刻科助教諭試補を務める。明治26年渡米し、翌年創立された高岡工芸学校へ納富校長に招かれた。介次郎は体が弱かったため校長心得として就任。十数年にわたり富山の美術工芸の発展に尽くした。大正8年逝去。

村上 九郎作 「鷹の図木彫額」

[松田 尚之] まつだ なおゆき
 明治31年9月富山市越前町生まれ。大正6年窯業科製陶部を卒業後、東京美術学校彫塑科に進む。京都大学建築科に奉職するため、京都に移り、京都彫刻界の中心的存在として活動を続ける。戦後は金沢美術工芸大学教授、京都学芸大学教授を歴任。昭和43年日本芸術院会員。平成7年逝去。

松田 尚之 「仲良し」

[新谷 英夫] しんたに ひでお
 明治40年7月15日金沢市松ヶ枝町生まれ。本校窯業科製陶部卒業後、東京美術学校彫刻科塑像部本科入学。吉田三郎に師事。関西を彫刻活動の拠点として活躍するが、阪神大震災にて婦人と共に帰らぬ人となる。

新谷 英夫 作 「カリアチド・マメール」 畝村 直之 作 「想」

8,絵画                        
 [玉井 敬泉] たまい けいせん
 明治22年金沢市生まれ。(本名 猪作) 明治40年 図案絵画科卒業。
在学中は山田敬中に図案と絵画を学ぶ。卒業後は農商務省東京工業試験場吏員となり、昭和22年から昭和35年まで図案絵画科講師を勤める。大正3年第8回文展初入選。大正8年京都日本画無名展首席天賞受賞。その年に帰郷し、六耀会の発足に参加。白山をこよなく愛し、白山観光協会理事長として白山の国定公園化に尽力した。昭和35年逝去。

玉井 敬泉 「渓間の雨」

[山本 乙枝] やまもと おとえ
 明治33年佐賀市に生まれる。昭和3年から昭和21年まで図案科教諭。昭和30年まで金沢美術工芸大学に奉職した。昭和57年逝去。

「鯉の図軸」 市川 正徳 画 「山茶花に菊戴」

[高光 一也] たかみつ かずや
 明治40年1月4日 金沢市生まれ。大正14年 図案絵画科卒業後、金沢市内尋常小学校に勤務する。 
昭和4年二科展初入選、暁鳥 敏の紹介で中村研一に師事。昭和7年帝展初入選、画業一途を決意し小学校を辞し、父の後を継ぐ。昭和20年 高橋介州、相川松瑞、長谷川八十、浅田二郎等と石川県美術文化協会を設立し理事となる。昭和21年、金沢美術専門学校(現 金沢美術工芸大学)の創設に参加し、 同校の助教授、教授を務める。昭和54年日本芸術院会員、同61年文化功労者。昭和61年11月12日逝去。

高光 一也 「みなみを想う」
高光 一也 画 「秋Ⅰ」 (昭和30年代、本校校舎にて展示)

9,お茶に関連した作品                 
 [宮崎 寒雉] みやざき かんち 茶道釜師 寒雉 13代目

 昭和10年窯業科卒業。昭和59年永年の茶道振興に寄与した功で、茶道文化賞を受賞。松地紋真形釜(まつじもんしんなりがま)は百周年に寄贈されたもので、夏向きの釜である。

「松地紋真形釜」 魚住 法光 作 「砂張水指」
吉田 楳堂 作 「ぐり彫香合・茶匙」 山崎 宗玄 作 「雲華焼火入」
魚住 為楽 魚住 為楽 作 「砂張建水」

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寄贈作品の紹介 1                    
 
平成14年に絵画(油絵)4点が寄贈されました。

作者名    作品名
吉田 冨士夫 催眠術
吉田 冨士夫 予感
吉田 冨士夫 跳べ
大地 統   尾湾積雪

「催眠術」 「予感」 「跳べ」
   
吉田冨士夫 「ペットたち」    

 吉田冨士夫氏は昭和4年金沢市に生まれ、昭和21年3月本校の図案科を卒業しました。昭和22年から同36年まで日本硬質陶器(株)図案室に勤務し、陶磁器デザイナーをしながら洋画家宮本三郎に師事しました。昭和29年から同32年まで、陶画技術が評価され、スペインのビタソア陶器会社やポルトガル・ビスタアングレ陶器会社に招かれ指導。九谷の絵の具で描かれた花瓶が好評を博しました。昭和47年に描かれた「ペットたち」で色彩的な転機を迎え、やがて少女、動物、ピエロなどを題材に、妖しく幻想に満ちた空間と言うよりは本人の夢そのものが描かれるようになりました。平成13年逝去。

大地 統氏略歴

昭和 9年 金沢生まれ
昭和27年 石川県立工業高等学校図案科卒業
昭和30年 金沢美術短大油画科卒業
 (竹沢・高光先生の指導を受ける)
昭和42年 日展入選
昭和57年 日展会友・一水会会員

大地 統 画 「尾湾積雪」

寄贈作品の紹介 2                    
平成15年以降に寄贈された作品を紹介します。

蓮田 修吾郎氏 白銅浮彫「さいはて雲」

 蓮田修吾郎氏は大正4年、金沢市に生まれ、昭和8年本校図案絵画科を卒業後、東京美術学校工芸科鋳金部に進みました。高村豊周に師事し、昭和24年日展初入選。東京芸術大学教授として教鞭を執り、昭和40年ベルリン芸術祭使節として訪欧。昭和50年日本芸術院会員に推挙され、昭和62年文化功労者。平成3年には文化勲章を授章されました。平成22年1月6日逝去。

蓮田修吾郎 作 「100周年記念モニュメント」 「あさまだき大雪連峰」 

 創立120周年にあたり、重要無形文化財「蒔絵」保持者 大場松魚氏より「平文清光 干菓子盆」、重要無形文化財「沈金」保持者 前史雄氏より「沈金 菊しずく平棗」が寄贈されました。心より御礼申し上げます。


                                  ギャラリー雪章運営委員会 鶴野俊哉・山本哲也・濱岸勝義