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【100周年記念誌】津高探訪⑩「希望の像」その2

●北斗七星を指さす2代目「希望の像」 ※生徒玄関に向かって右側

 現在の「希望の像」は2代目である。この2代目誕生の裏には悲しい出来事があった。石像台座裏にこう記されている。

 この像は、昭和四十六年三月卒業の津幡高校全日制第二十三回生及び定時制第二十回生の卒業記念品として寄贈され、

日展作家の石田康夫氏の制作により、同年八月建てられた。二十数年間風雪に耐えた後、全国高校総体出場中急逝した

岡田隼人君の保護者義久氏の寄贈により、平成八年三月再建された。

                           題字の揮毫  第十六代校長  南谷 直彦

              ○記文                   ○「希望の像」揮毫

  

 悲劇は平成7年8月6日、鳥取県米子市で開催されていた高校総体・漕艇競技の準々決勝後に起こった。レース後「動悸がするんや」と訴えた隼人君に懸命の救護がなされたが、その後、帰らぬ人なった。死因は詳細不明であった。

 新聞の見出しには、「高校総体漕艇の津幡高生急死」とあり、記事には

 (岡田君の通夜は七日夜、津幡町加賀爪の弘願寺で営まれ、岡田君の両親、津幡高関係者ら参列した約四百人が若すぎる 死を悼んだ。高校総体で不在の南谷直彦校長に代わって越野兵司教頭、橋本監督とボート部員、36Hの同級生らが通夜に駆けつけ、祭壇の岡田君の遺影に手を合わせ焼香した。

 津幡高校PTA会長も務める父親の義久さんは、三人きょうだいの末っ子である岡田君の初の全国大会出場を喜び、会場で応援していた。義久さんは「最後まで隼人のそばにいて死に水を取ってやることができた。隼人は十七年間、精いっぱい生きたと思う」と目頭を押さえた。)とあり、津幡での悲しみの通夜の様子が伝えられた。

 高校総体で不在の校長と同じく参列できなかったのが、岡田君の在籍する36Hの担任、山本智秀先生(現津幡高校長)だった。山本校長はこの時を回想して

 (平成7年8月6日、学校から携帯電話に岡田君急逝の知らせが入った。私は島根県浜田市でのインターハイ柔道競技期間中で身動きがとれなく、通夜、葬儀への参列も叶わず、最後の別れを告げることができなかった。私は遠く離れた島根の地から、石川の方向に向け、一人ひたすら手を合わすことしかできなかった。

 その後、淡々と時は流れ、それぞれの進路も決まっていったが、一人欠けた36ホームでは物足りない空気が漂っていた。岡田君のために何かできないかクラス全員で話し合い、卒業アルバムに岡田君も載せてもらえるよう当時の校長に嘆願した。卒業式前日には、クラス全員で墓参りに行き、36人全員がそろった卒業アルバムを手に思い出を語った。

 今でも「希望の像」を見るたびに岡田君の笑顔や当時の活気溢れるクラスを思い出す。)

 

            今日も2代目「希望の像」は生徒の登下校を見守っている。