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【100周年記念誌】津高探訪①「地域の熱い要望」

 大正13年、河北郡に農学校という地域社会の熱烈な要望の中で、河北郡町村組合立河北農蚕学校の設立が認可され、開校の運びとなった。「熱烈な要望」について『津幡高等学校五十年史』には、

「中学校が金沢に集中していることをあげ、郡部に設立して、男子の教育をするよう強く県に要望した」

「農業校設置状況は、全国で最下位で、農業県石川の名に恥ずかしいと北國新聞は、農業校設立の必要を力説した」

「世論を受け、山県県知事は、能登に農業、加賀に工業の構想を明らかにした」とある。

 河北郡自治公会堂を仮校舎とし、実習地を津幡町加賀爪にすることとなった。大正13年4月、55名の新入生で入学式が行われた。その後、大正15年3月、県立に移管することとなり、校名を石川県立津幡農蚕学校と改称することになり、加賀爪に新校舎が建設された。さらに昭和12年ころまで実習施設の新築、増築が相次いで行われ、あわせて実習農地も増加し、生徒一人あたりの農地は全国一の大きさを誇った。

●(陸橋側から撮影された石川県立津幡農蚕学校 ※昭和4年〈1929〉津幡農蚕学校第3回卒業アルバムより)

校舎建設にあたり、『津幡高等学校五十年史』には、

 「鍬をかついで、毎日、仮校舎から実習地まで通いながら一日も早く校舎のできあがるのを待ち焦がれていた。5月  初めから校舎建設予定地である加賀爪ヲ45番地付近へ、これまで見たこともない大きな外材や赤い瓦が到着した。毎日実習に行くたびに、校舎のできあがる状態を眺め、「おい、できるぞ、できるぞ。」とはしゃぎ回り、材木の上や瓦の上にあがって、大工や先生方に叱られたということである。」

また、9月来賓を多数迎えての落成式では、

 「床には油が塗ってあり、ペンキの香りと木の香りが交錯する。祝賀のしるしに学校からもらった小さな紅白のまんじゅうを、二つ一度に口の中に入れて抱き合って喜んだ。正面玄関、三角屋根の赤瓦が、生徒の忘れがたい青春のシンボルであった。」

とあり、当時の生徒たちの喜びがうかがえる。