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【100周年記念誌】津高探訪③「雨読晴耕」

●津幡農学校の正面玄関に掲げられていた扁額

『津幡高等学校五十年史』には「大正13年(1924)四月、当時の長谷川知事は「雨読晴耕」の四文字の揮毫を三浦校長(農蚕学校初代校長)に授けられ、それより本校の校訓として」とある。また『同窓会報』や『同窓会誌』にも当時の思い出として紹介される四文字である。

 一つの疑問として、なぜ、本来の「晴耕雨読」ではなく「雨読晴耕」なのか。『五十年史』には

「校訓にも示されている通り雨読晴耕ということであって、雨の日は専ら読書に耽り、勉強第一主義で、晴れた日は外へ出て農耕に励み、学理と実際を一体化する知行合一の教育を重んじた。」とあり、農蚕学校、農学校でも、学生は学びが第一であることを訓じたものと推察される。現在、この四文字は、農学校卒業アルバムの1ページに見ることができるが、

もう一つの疑問として、農学校に掲げられていた扁額はどうなったのか。今も存在するのか。不明である。

 『五十年史』には「津農気質」という一節があり、そこには「津農魂」について、

「県下の屈指の農業校として輝かしい伝統の中から、津農生の気風にも、どことなく誇り高いものがあった。開校当時の入学生には、地主の子息がいたが、百姓には学問が不要であり、ぜい沢であるとの農村の一般的考え方から、生徒数は少なかった。教師一人に生徒七人という割合で、実に家族的精神がみなぎっていた。正に校訓の示すがごとく雨読晴耕であった。」

また、「鍬を肩に、土に恋慕し、共に鋤ををもち、肥をかつぎ、土を相手に生きたが故に、本校生の特質として、〈泥くささ〉は天下に響いていた。純朴でおっとり型で誰からも好かれるタイプ、裏面にはしんが強く、困苦欠乏に耐え、大地に足のついたねばりをもつ津農魂ともいうべきものが見られる。」とある。

そして、この一節の中には、「きれいな校舎」として、

 「本校の特色の一つは、農場は勿論、校舎の隅々まできれいに清められていて、公共物が大切に取り扱われ、整理 整頓がよく行きとどいていた」とあり、県知事が学校に訪れた際のエピソードが紹介されている。知事は帰られる時、舎前に整列している生徒に

 「こんな綺麗に掃除された学校、机に傷一つない学校はない。県下の範として足る」といわれ、車に乗られたということである。