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2021年5月の記事一覧

「高松歴史街道」ポイント紹介④

<高松歴史公園>

 のと里山海道高松インターチェンジを降りて北に進むと、高松歴史公園と呼ばれる小さな公園があります。

 

◆高松口銭(こうせん)場跡の碑(高松歴史公園内)

  加賀藩は、街道の整備を進め、沿道の主要な村を駅(うまや)に指定し、駅馬の制度を定めていました。高松も能登方面に至る表街道の宿場駅のひとつでした。宿場駅には物流の拠点として各地から物資が集まり、荷問屋と呼ばれる人々の手によって各地の駅へと運ばれていました。口銭というのは、物資にかけられる手数料・運送料・保管料などを意味していました。

 高松は海上交通の面でも加賀・能登を結ぶ重要拠点であり、江戸時代中期以降には取り扱う物資の量も増えました。これらの口銭の徴収を行っていた場所が、口銭場です。

「高松歴史街道」ポイント紹介③

<高松道路元標>

 額神社近くに、「高松道路元標」がある。旧能登街道の高松地区の中央辺りにある道しるべで、大正12年に設置されている。金沢までの道のり、加賀方面の津幡、能登方面の大海までの道のりが刻まれている。現在ある道標は平成13年5月13日還暦を迎えた人たちの記念として建立されたものである。

高松に残る昔話

 高松小学校の図書室前の廊下に、高松の昔話が掲示されています。題名は「覚了さんとムジナ」です。紙芝居のようになっています。物語の舞台となった具体的な場所などはわかりませんが、ほんわかとした何か憎めないムジナのお話です。

 

 

 

 

「高松歴史街道」ポイント紹介②

「旧能登街道 宿場町」

 口銭場があったことが示すように、藩政期には旧高松町から宝達志水町の宿を通って能登へと至る街道がありました。高松の駅(うまや)はその要衝として多くの宿が並び、能登と加賀を往来する旅人で賑わっていました。その家数は寛政10年(1798年)には160軒、安政2年(1855年)には439軒と、その増加率は津幡の駅(うまや)を凌ぐほどであったといいます。のちに高松は商工業の町として大いに栄えることになりますが、その原点は藩政時代の宿場にあったと考えられています。南町・中町・上北町と呼ばれる町内会の大通りは能登街道の宿場町として賑わっていた頃の面影を残しています。 (かほく市ホームページより)

 

「高松歴史街道」ポイント紹介①

「桜井三郎左衛門(さくらいさぶろうざえもん)銅像(高松産業文化センター横)

 

 桜井三郎左衛門は、天正12年(1584)に越中国(現在の富山県)の大名佐々成政が、現在の宝達志水町にある末森城を攻めた「末森の戦」の時、救援に向かっていた加賀藩祖前田利家を現在の宇ノ気周辺で迎え、敵軍が川尻村(宝達志水町)で利家がやってくるのを待ち構えていることを伝えました。そして、三郎左衛門は海岸沿いから密かに利家の軍勢を誘導し、今浜(宝達志水町)付近まで案内をしました。これにより利家は末森城を危機的状況から救うことができ、勝利のきっかけを作ったということで利家は三郎左衛門に褒賞を与えることにしました。三郎左衛門は褒賞として、「村の地子銀(宅地税)を末代まで免除してほしい」と願い出、利家はその願いを快く承諾しました。そして、それ以来、明治8年(1875)に租税制度が改正されるまで300年余りの間、村民はこの恩恵を受けることとなったといわれています。

(かほく市ホームページより)