日誌

2021年6月の記事一覧

「高松歴史街道」ポイント紹介⑦

金津家住宅

         

 古い町並みを残す旧能登街道の通りに面している住宅で、戦前から残る家屋である。改築の際には昔ながらの格子を残し、街道の景観に配慮した造りとなっている。内部は、吹き抜けの美しい小屋組の形状を見ることができる。

「高松歴史街道」ポイント紹介⑥

額神社(ぬかじんじゃ)

             

 額神社は、昔から高松の鎮守として崇められてきた。ここは、加賀国より能登国に通じる街道で、街道の南、河北潟より七窪を経て当社に至る街道は、「おまんぎつね」が出る所であり、旅人の安全を祈願したと伝わる。英之社は、桜井三郎左衛門を祭神とする。桜井三郎左衛門は、天正12年末森合戦に藩公前田利家に協力した人物であり、その功績により高松の宅地の税を免除されたと伝わっている。 嘉永3年に拝殿を建立し、古宮より現在地に遷座した。(神社由緒書より)

 また、ここは宿場町でもあり火災も頻発しており、火事除けに赤飯を神に供えた後で各家に配る慣わしがあった。しかしある年、赤飯の代わりに清酒を配ったところ大火事が発生したため、神様の怒りに触れたのではないかと畏れ、もとの赤飯に戻したのだという。

「高松歴史街道」ポイント⑤

鶴 彬 句碑(歴史公園内)

         

鶴 彬(つる あきら)本名:喜多 一二(かつじ)は旧高松町出身の川柳作家です。

 彼は8歳の頃に父を亡くし、その後叔父の養子となりました。仕事を終え読書にふける日々を送っていた彼は、読書で得た知識を通して自分の思いを言葉で表現してみたいと考えるようになり、川柳を作るようになりました。

 川柳に熱中した彼は、地元新聞の柳壇を独占する勢いで作品を創作するようになり、高い評価を得ましたが、一方で反感も持たれることとなりました。不景気の影響によって生活に窮した彼は大阪に出て働き、その頃から鶴彬の号を使い始めます。

 鶴彬は、川柳雑誌『川柳人』上で発表した作品が反戦的であるという理由で警察に連行され、その取調べ中に赤痢を患い、昭和13年に息を引き取りました。享年29歳でした。

 鶴彬は、日本が軍国主義に邁進していた時代にその社会的矛盾を風刺した川柳を発表したことから、一般的に「反戦」の川柳作家という評価が強調されています。しかしながら、無力な人々の心の救いを川柳に見出そうとしたことや、格下に見られていた川柳を大衆のための文芸に引き上げようとしたことも非常に高く評価されています。 

 この句碑は昭和47年に鶴彬の友人や同級生などの有志の手によって、高松児童公園に建立され、その後歴史公園に移設されたもので、「枯れ芝よ団結をして春を待つ」が刻まれています。

(かほく市ホームページより)

 

 高松小学校では、毎年「鶴彬を顕彰する会」のご協力により、講師をお招きして鶴彬さんについて6年生が学んでいます。