新しい畑仕事のため、一文橋ができた。町人は喜んで橋を渡った。中学校が出来、大八車に積んだ椅子や机が渡った。ゲートルを足に巻き銃を担いだ中学生が渡った。戦後の 男女共学の中、第二教場(女学校)と現校舎の間を、橋を渡って往来した。……………
徳川幕府が倒れ、廃藩置県が行われた。そのとき、それまで大聖寺藩の「御蔵」(米倉)があった御 用地が藩の有力町人(耳聞山の方々が多かったらしい)に払い下げられた。「御蔵」の土地は、少し高く度 重なる水害にも水がつかない一等地であった。最初は畑として作物や桑の木が植えられていたようである。 明治7年耳聞山の方々が畑仕事の近道のため、大聖寺川に一本の橋を架けた。それが今の「一文橋」である。 この橋は有料橋であり料金は「1厘」であった。一厘橋と呼んだ方がよいようであるが、当時、一文銭が一 厘として通用していたらしい。そして、現在のグランド中ほどに道をつけ、山代温泉に続く繋げたのである。 この道と橋のお陰で「永町」と「耳聞山」の人たちは遠回りをせず往来できるようになったのである。
その後、「加賀江沼の地に中学校を」との設置運動がおこり、現在の敷地分が県に寄付されたようである。 グランドを突っ切る道が校舎より移動されて残ったのである。
明治元年~大正二年
開校
明治44年4月、先ず郡役所の隣の古い江沼公会堂(現在の錦城小学校)を 仮校舎として、小学校から、古い黒板や机、腰掛等を借り教室を二つ作った。白い天竺木綿で幕を作り 二つに区切っただけである。しかも一方は机をおいて普通教室とした。生徒は高等小学校卒業生は二年 生へ、尋常科卒業生は一年生へ入学させることとして、国語、算術、裁縫の入学試験を行った。鈴木校 長も北垣教諭も裁縫の試験問題にはずいぶん悩まされたが、結局手拭と針、糸を持参させ袋を作らせて 2人で採点された。受験生全員がパスして第一回、第二回の卒業生となる光栄を予約された。二年生が 41人、一年生が24人、先生方は北垣教諭のあとに赴任された清水、脇田、脇山の三教諭を加えて合計5人というこじんまりした学校であった。
新校舎
旧大聖寺藩主前田子爵の敷地と建物の一部を譲り受け4教室を新築し、仮校舎の公会堂より移転したの は大正元年11月末日である。新校舎はさらに大正2年5月に雨天体操場、10月に御真影奉安殿が増 設され、学校の形態を整えて来た。当時の面影をしのぶものは運動場跡に残る一本の椎の古木のみであ る。校舎はすべて取壊され、加賀市大聖寺保育所となってしまった。礼法室は竹涇館と名称を変えて江 沼郡神社の境内へ、茶室はそのまま本校の前庭に移されて現存している。
授業
授業
授業ではやはり裁縫が主体で、一日3時間は必ず実施された。一般学科はあまり重視されないというよりは生徒の方の熱が乏しいので、幾何など先生も生徒も苦しんだようである。西洋史や東洋史も進学志 望生には特別授業を必要とした。瓜生校長は時々課外に論語を講義されて、儒教の人倫を説いて深い感 銘を与えられ、井上先生(校医・江沼病院長)も時々性教育に名講義をなされ、古い倫理に加えて新しい時代の空気を呼吸することを忘れなかった。国語の時間は文学少女が多かったためなかなか熱心であった。
運動会
秋の運動会がいつも待望のたのしい一日とされていた。男女別学のきびしい当時では男子生徒の見学は一切お断りで、板塀からのぞいて石灰をかけられた男子生徒もいた。必ず行う種目には、いろいろな形に隊をくんで行進するプロムナードと呼ばれる行進や、体育ダンスがあり、二尺の元禄袖にたすきをかけ袴をはいて走ったのは正に壮観だった。
大正三年~昭和十年
創立・開校
教育の普及に伴い中学校進学希望の増加は一般的傾向であったが、明治31年、錦城小学校同窓会一同の名で中学校の設置を県知事に陳情している。
そして、大正12年4月1日に開校することが認可された。また、入学志願者のうち212名について入学試験を行い100名の合格者を発表。
山中海軍療養所整地作業奉仕(元山中国立病院)
~思い出 草創の記より(中村 清吉)~
山中海軍療養所整地作業奉仕(元山中国立病院)
~思い出 草創の記より(中村 清吉)~
入学試験は、県下の諸校は毎年3月末一斉に行われていたが、新設校のために準備の都合あってか、この年に限り4月に入ってから行われた。試験場は、まだ校舎がないので錦城小学校をかり、先生は石井初代校長と中道、中川先生の三人(外に大島書記)で行われ、100名が入学を許可された。
ちょうどその当時、群制が廃止され錦城小学校の隣りにあった江沼郡役所の庁舎が空家になってい たので、それを改造して仮校舎とし、二階に2教室をつくり甲組乙と編成し、階下には職員室、事 務室と生徒会室にして雨天の時は体操を行ない、剣道もここで行われた。運動場は錦城小学校の運動場がすぐ裏にあるのでその一部を借りた。こうして石川県立大聖寺中学校がスタートしたのである。授業料は月額3円、校友会費月50銭旅行積立金月50銭だったと思う。本校の敷地は長町に1万坪が定められた。
重たさ忘れさすのも ペンキの香
二年間仮校舎で学んでいるうちに永町に本校舎が建築され本館が完成したので、いよいよあこがれの新校舎へ移動することになった。大正14年3月20日、第3学期の期末試験が終了してから、1・2年生全員が各自で自分の机をかついだりして8年間の仮校舎から永町の新校舎へ運んだ。
当時はトラックなんていうものはなく、せいぜい大八車ぐらいなもので、それも学校の備品などを運ぶのに借りられ、銘々が自分の机を運んだ。何しろ3センチもある厚い板で、しかも椅子もくっつけてセットされたしろものであるから、少年の身にとっては始末に負えぬものであった。福田橋を渡り耳聞 山町を経て一文橋の裏門から入るのであるが、力のあるものは別として、非力の者は机の下へ頭をつっ こんで担ぎ上げ、50メートルほど歩いては休むといった具合、中には2人で太い竹に一脚だけ通して2度に運ぶといった有様、これも鍛錬のひとつであったかも知れぬ。
昭和六年~昭和二十年
戦時中の大聖寺中学校
日を逐うて大陸における戦雲が物狂わしさを加え、内地でも非常時体制から戦時体制となり、昭和16年遂に大戦争に突入する羽目になってしまった。学校の生活の中にも鍛錬時間の日課、日の丸弁当、愛国貯金の集金等と、すべてが戦争につながるものとなった。生徒たちの進学も軍事関係の志望が強く、堀実君が開校以来初めての海兵入学を皮切りに、丸山、和泉、中井の諸君と引き続いて、何人かの合格者が後に続き更に幼年学校、陸士、或は予科練等と軍隊を志し、向合格する者が続出した。今日に至ってはあれこれ批判もされ反省することもあろうが、当時は生徒も私自身も、ただ公の奉ずること、国難に殉ずることを第一に考えて、毎日懸命の生活精進していたのであった。
グライダー部と自動車部
当時中学校長の中でも、年少気鋭の校長とも言うべき富樫国三郎校長は、県下の諸学校に魁せてグライダー部を設けて、戦時教育への新し
い一歩を劃した。生徒数に比しては恵まれた広い校庭の 一隅に好都合の安田山(四代校長安田氏の時代に校地造成の余土を盛り上げてできた小さい丘)がありその中腹あたりがスタートに丁度であった。
土に親しみ国に尽くさむ(葭谷 善美)
昭和15年、皇紀2600年。私たち31回生、109名は晴れて、石川県大聖寺高等女学校に入学いたしました。
学校ではこの光栄ある年を記念して、町外高尾山に4000歩余りの山地を開墾して報国農場を作られることになり、私たちは4年間この農場を耕し続けたのです。「今日は時間割通り授業があるかな」と期待して登校しますと、「作業」と指令がでます。モンペをはいて鍬を担いで”勤労報国”の幟(のぼり)をなびかせ、校門をでるときは「歩調をとれ」と号令をかけて、高尾山へ向かうのでした。郊外へでると歌を歌いながら行進したのですが、小野坂の急坂にさしかかると下肥 (便所のうんちとおしっこ)を進まず、汗みずくになって大八車を押したり引っ張ったりしたものでした。農場に着くと太陽はギラギラと容赦なく照りつけますが、水もなくトイレもありません。 大きな木の根っこがなかなかおこせなくて、悪戦苦闘し、帰校すると倒れて苦しがる生徒もいました。昭和18年、開墾4年目、それまでの苦労が実り荒れ地は整然とした農場となりました。
昭和二十三年~
大聖寺高等学校の誕生
昭和23年4月1日、石川県条例第1号により旧大聖寺中学校と旧大聖寺高等女学校を統合して 石川県立大聖寺高等学校が設置され、旧石川県立七尾高等女学校長中谷久弥氏を初代校長に迎えた。4月15日開校式が行われ、男女生徒が旧中学校の講堂に集まった。中谷校長は「自由とは 真理を追求し、真理を信じ、真理を伝えることによって自由なることである」とし、この真義をわきまえ、民主主義社会における指導者として十分な教養をつみ、新生大聖寺高校の歴史に輝か しい一項を加えんことを切望された。ついでに県知事の告辞があり、生徒を代表して3年生の岡田己代次君が、健全明朗なる校風を樹立すべしとの決意にみちた宣誓を述べ、大聖寺町長、錦城 中学校長、父兄代表からの祝辞をいただき、歴史的な開校式は終了した。
校内球技大会でのソフトボール
男女共学
23年発足当初から全国的に男女共学制を採用したのは普通高校では金沢第三高校(現金沢桜丘高校)と飯田高校の2校のみで、他は大部分が本校のように教場別の共学であった。
全面的共学を要求してやまぬ生徒の声に、父兄の側では共学によっていつ面倒なことが起こるかわからないという懸念をなかなか払拭できなかったが、学校としては2学期から漸進的に実施することとして「特別研究」の時間のみ両教室間の交流を認めることにした。この時間は各自が自由に先生を選んで教室に集まることができたので、女子の多いクラスへも男子は敢然と入っていき、当時としては随分勇気のいることであったと思われるが、女子もまた共学の楽しさを前にして立ちすくむことはなかった。
芋畑がグランドにかわる日
芋畑がグランドにかわる日