蒼頡は鳥の足跡で文字を創ったそうだ(校長日記)
私の原点
初めまして。学校長の山下悟です。この春の定期異動で、加賀市立片山津中学校より赴任してきました。今後ともよろしくお願いいたします。
前任校で続けていた校長ブログをこの錦城中学校でも続けたいと思います。
Web.版学校だより、スタートです。
昨日は親任式でした。少しドキドキしながら講堂へ入場しました。2・3年生を前にして初めてのあいさつ。
錦城中学校へは3回目の赴任です。1回目は平成10年。山中小学校からの異動でした。小学校に初任として6年間勤めた後の中学校。当時はやや?いいえ、なかなかの生徒たちとの出会いがありました。歴史を感じる立派な旧校舎と今の新校舎両方で過ごすことができました。
2回目は平成23年。その年の3月11日。加賀市の中学校は卒業式でした。東日本大震災が発生した日でもあります。その年に異動してきました。
そして今年、3回目の錦城中学校。くしくも1月1日に能登半島地震が発生。なんとも印象深い異動の年となってしまいました。残りの教員生活を錦城中学校で終えられること、とてもありがたく思っています。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、この錦城中学校は私が教員を志すきっかけとなったある経験をした学校でもあります。それは、中学校3年の郡市夏季バスケットボール大会でのことでした。
錦城中学校体育館(今もある古い体育館です)を会場としてバスケットボールの大会が行われました。2年の新人大会では、錦城中学校を破り優勝し、加賀地区大会に出場できた山中中学校は、この夏の大会でも錦城中学校と決勝戦で戦いました。後半の半ば、私のファウルをめぐってある出来事が起こりました。
ファウルを宣せられた私は、テーブルオフィシャルから5ファウルの札を上げられました。当然、審判は選手交代のために時計を止めて、交代を促さねばなりません。しかし、審判はそれに気づくことなくゲームを普通に続行させてしまったのです。私は5ファウル。素直な生徒だった私は、呆然とコートに立ち尽くしていました。
※ 私が教員を目指すこととなった場所。私の「原点」です。
5対4でゲームが進み、得点も認められ、それまで競っていた両チーム、錦城中学校がリードしていきました。山中中の監督もやっと気づき、審判にアピールするも、認められずゲームは進んでいきました。何回目だったか、ボールデッドになった時に初めて人数の違いに審判も気づき、慌ててゲームを止めたのですが、時すでに遅し、その処置の方法もあいまいなまま、その間の得点も認められてしまい、ゲームオーバー。とても悔しい経験でした。
「バスケットボールを教える保健体育の先生になろう。そして審判の資格もしっかり取って、私みたいな悔しい思いをする生徒が絶対に出ないようにしたい。」
これが私の夢となりました。
平成4年にスタートした教員生活。はじめは小学校でした。6年ずっと我慢して、晴れて保健体育科の教員として赴任できた錦城中学校。紆余曲折はあれども何とか男子バスケットボール部の顧問として北信越大会まで駒を進めることができました。2回目の赴任の時は、女子バスケットボール部に北信越大会まで連れて行ってもらいました。全中には1点足りなかったことを今でも鮮明に覚えています。
さて、3回目の赴任。教員生活の最終コーナーを錦城中学校の校長として勤めることができること、心から嬉しく思って言います。今回は、男子? 女子?どっちに連れて行ってもらえるでしょうか?今年は全中は北信越ブロック。新潟大会です。
おっと、校長という立場でした。ほかの部活動にも頑張ってもらって全中の会場巡りをさせてもらいたいと思います。今からとても楽しみで、ワクワクしています。
競い立ためや若き子等
興せ 錦城中学校
奮え 錦城中学校
「顔晴ろう のと 顔晴ろう いしかわ」