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2022年5月の記事一覧

【100周年記念誌】津高探訪③「雨読晴耕」

●津幡農学校の正面玄関に掲げられていた扁額

『津幡高等学校五十年史』には「大正13年(1924)四月、当時の長谷川知事は「雨読晴耕」の四文字の揮毫を三浦校長(農蚕学校初代校長)に授けられ、それより本校の校訓として」とある。また『同窓会報』や『同窓会誌』にも当時の思い出として紹介される四文字である。

 一つの疑問として、なぜ、本来の「晴耕雨読」ではなく「雨読晴耕」なのか。『五十年史』には

「校訓にも示されている通り雨読晴耕ということであって、雨の日は専ら読書に耽り、勉強第一主義で、晴れた日は外へ出て農耕に励み、学理と実際を一体化する知行合一の教育を重んじた。」とあり、農蚕学校、農学校でも、学生は学びが第一であることを訓じたものと推察される。現在、この四文字は、農学校卒業アルバムの1ページに見ることができるが、

もう一つの疑問として、農学校に掲げられていた扁額はどうなったのか。今も存在するのか。不明である。

 『五十年史』には「津農気質」という一節があり、そこには「津農魂」について、

「県下の屈指の農業校として輝かしい伝統の中から、津農生の気風にも、どことなく誇り高いものがあった。開校当時の入学生には、地主の子息がいたが、百姓には学問が不要であり、ぜい沢であるとの農村の一般的考え方から、生徒数は少なかった。教師一人に生徒七人という割合で、実に家族的精神がみなぎっていた。正に校訓の示すがごとく雨読晴耕であった。」

また、「鍬を肩に、土に恋慕し、共に鋤ををもち、肥をかつぎ、土を相手に生きたが故に、本校生の特質として、〈泥くささ〉は天下に響いていた。純朴でおっとり型で誰からも好かれるタイプ、裏面にはしんが強く、困苦欠乏に耐え、大地に足のついたねばりをもつ津農魂ともいうべきものが見られる。」とある。

そして、この一節の中には、「きれいな校舎」として、

 「本校の特色の一つは、農場は勿論、校舎の隅々まできれいに清められていて、公共物が大切に取り扱われ、整理 整頓がよく行きとどいていた」とあり、県知事が学校に訪れた際のエピソードが紹介されている。知事は帰られる時、舎前に整列している生徒に

 「こんな綺麗に掃除された学校、机に傷一つない学校はない。県下の範として足る」といわれ、車に乗られたということである。

 

                                     

 

【100周年記念誌】津高探訪②「農学校門柱」

●陸橋側から見た現在の門柱(平成6年6月記念碑建立 写真左)

かっての津幡農蚕学校が建てられた場所、手前にある2本の古い石の門柱が「石川県立津幡学校」の正門跡である。(平成6年6月記念碑建立)

 昭和4年の世界恐慌のため、養蚕業は大きな打撃を受ける。それまで大きな販路となっていたアメリカに対する生糸の輸出が不振におちいったため、蚕の値段が急激に下落した。その結果、養蚕では各農家の経営が困難となり、卒業生の就職も難しくなった。この流れの中、「津幡農学校と改称しては」という地元民からの要望が高まっていった。

 卒業生が海外に進出したり、就職を志す場合、どうしても名前にとらわれ、農蚕学校では蚕科を主とするような学校のように考えられ、農学校出身者の方が優先的に採用される傾向もあった。学校側は養蚕学校創設以来尽力した方たちの了解を求めて、昭和11年3月、校名を「石川県立津幡農学校」と改称した。

●旧校舎(津幡農学校→津幡高校)写真(1966年〈昭和41年〉津幡高校第18回卒業アルバムより)

 

【100周年記念誌】津高探訪①「地域の熱い要望」

 大正13年、河北郡に農学校という地域社会の熱烈な要望の中で、河北郡町村組合立河北農蚕学校の設立が認可され、開校の運びとなった。「熱烈な要望」について『津幡高等学校五十年史』には、

「中学校が金沢に集中していることをあげ、郡部に設立して、男子の教育をするよう強く県に要望した」

「農業校設置状況は、全国で最下位で、農業県石川の名に恥ずかしいと北國新聞は、農業校設立の必要を力説した」

「世論を受け、山県県知事は、能登に農業、加賀に工業の構想を明らかにした」とある。

 河北郡自治公会堂を仮校舎とし、実習地を津幡町加賀爪にすることとなった。大正13年4月、55名の新入生で入学式が行われた。その後、大正15年3月、県立に移管することとなり、校名を石川県立津幡農蚕学校と改称することになり、加賀爪に新校舎が建設された。さらに昭和12年ころまで実習施設の新築、増築が相次いで行われ、あわせて実習農地も増加し、生徒一人あたりの農地は全国一の大きさを誇った。

●(陸橋側から撮影された石川県立津幡農蚕学校 ※昭和4年〈1929〉津幡農蚕学校第3回卒業アルバムより)

校舎建設にあたり、『津幡高等学校五十年史』には、

 「鍬をかついで、毎日、仮校舎から実習地まで通いながら一日も早く校舎のできあがるのを待ち焦がれていた。5月  初めから校舎建設予定地である加賀爪ヲ45番地付近へ、これまで見たこともない大きな外材や赤い瓦が到着した。毎日実習に行くたびに、校舎のできあがる状態を眺め、「おい、できるぞ、できるぞ。」とはしゃぎ回り、材木の上や瓦の上にあがって、大工や先生方に叱られたということである。」

また、9月来賓を多数迎えての落成式では、

 「床には油が塗ってあり、ペンキの香りと木の香りが交錯する。祝賀のしるしに学校からもらった小さな紅白のまんじゅうを、二つ一度に口の中に入れて抱き合って喜んだ。正面玄関、三角屋根の赤瓦が、生徒の忘れがたい青春のシンボルであった。」

とあり、当時の生徒たちの喜びがうかがえる。

 

【100周年記念誌】津幡高校100年の歴史を記念誌に

100周年記念事業の一つとして「津幡高校100年誌」を発刊します。

192ページに津幡100年の歴史をまとめていきます。

現在、編纂作業がスタートしてから1年が経過しようとしています。

このブログでは、100年誌に掲載予定の内容について、ダイジェストで紹介します。

また、編纂の過程で、発見したこと、不明なことなども掲載していきますので、

ご意見などがございましたら、記念誌編纂作成委員会まで連絡ください。

●100年誌 イメージ