【制定のいきさつ】
開校1年目の昭和38年、卯辰山で行われる高等学校相撲金沢大会に参加した際、本校の生徒は応援歌がないことを寂しく感じた。そこで生徒会が中心となって応援歌の歌詞を生徒・職員から募集したところ、金沢二中出身で眼科開業医の 長岡 博男 (ながおか ひろお)氏 が作品を応募してきた(長岡氏と 前田長宗 初代校長 は金沢二中の同級生でもあった)。その作品は応募作品の中でひときわ格調が高く、応援歌よりも校歌にふさわしいという意見があり、同年11月の職員会議で長岡氏の応募作品を校歌の歌詞として使うことが決定した。作曲は当時金沢二水高校で音楽を教えていた 鴛原 利蔵 (おしはら としぞう)教諭 が担当した。
(参考文献)
・『金沢二中・錦丘高校校史』(昭和48年)
・『物語二中・錦丘<85>』「校歌できる」(北陸中日新聞 昭和56年8月25日朝刊)
【作詞者】
長岡 博男(ながおか ひろお) 明治40(1907)年 - 昭和45(1970)年
金沢二中を卒業後、東京医学専門学校(現・東京医科大学)に進んで医学を学びつつ、民俗学者の柳田國男に師事した。その後、金沢市味噌蔵町で眼科医を開業するかたわら、「金沢民俗談話会」、「加能民俗の会」を設立・主宰した。
眼鏡に関する資料の収集でも知られ、「長岡博男眼鏡コレクション附眼鏡史関係資料」(石川県歴史博物館所蔵) は県の有形民俗文化財に指定されている。
著書に『日本の眼鏡』(東峰書房、1967)、『加賀能登の生活と民俗』(慶友社、1975) がある。
【作曲者】
鴛原 利蔵(おしはら としぞう) 大正4(1915)年 - 昭和52(1977)年
東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)で学んだ後、石川県の高校で音楽の教師となる。金沢二水高校で合唱部を指導し、昭和28年のNHK全国唱歌ラジオコンクール(現・NHK全国学校音楽コンクール)で最優秀賞(第1位)を受賞するなど優れた成績を収め、「合唱の二水」を築いた。教員生活の晩年には県立盲学校、鶴来高校の校長を務めている。
本校の校歌より早く、昭和29年に白山市立白峰小学校の校歌を作曲している。また、昭和41年に開校した小松市立松東中学校の校歌の作曲も手掛けているが、同中学校は令和3年に小松市立松東みどり学園に統合され、校歌は別のものとなっている。
【歌詞の特徴】
作詞者の長岡博男氏が金沢二中出身であったことから、「紫錦」、「梅章校」という、金沢二中にちなんだ言葉が使われ、金沢二中と金沢錦丘高校のつながりを強く意識した内容となっている。
また、歌いだしの「山科の里の傳説(伝説)」とは、金沢に伝わる「芋堀り藤五郎」伝説のことであり、作詞者の民俗学者としての側面が現れている。なお、山科(京都の地名ではなく金沢の地名)は芋掘り藤五郎が住んでいた場所とされ、本校から約1kmの場所には「芋堀藤五郎神社」がある。
なお、金沢市、野々市市、白山市にある県立高校15校のうち13校の校歌の歌詞には、「白山」「海(日本海)」の少なくとも一つが含まれているが、本校(および金沢辰巳丘高校)の校歌にはいずれも登場しない。
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