学校日誌

2020年9月の記事一覧

ほりほりの部屋Vol.28「おいしい教員~義務教育限定~」

  

  皆さん、こんにちは。堀です。学校再開から、はや15週。長雨も、猛暑も、なんとか乗り越えました。朝晩、めっきり涼しくなりました。免疫力下がらぬよう、GAT!

 先日、コロナ禍で延期になっていた「看護職による出前授業」が、ようやく実施されました。錦中3期生、今から9年前の本校卒業生が偶然にも(!)石川県看護協会から派遣されてきました。日常の激務以外にボランティアで講師を務めてくれたにも関わらず、オリジナルのパワポ画面を作成・活用し、自身の高校時代の体験等も含め、錦の後輩たちのためにわかりやすく看護職のやりがいについて、説明してくれました。(ウチの末娘と同期生。高校2年時、同じクラス?)3学年合わせて、60名近くの生徒が受講しました。その感想文の中から印象的なコトバをいくつか紹介します。「何のために勉強しているのか、大学に入るためだけじゃないんだなーって思いました。・・・この人のために自分は今がんばってる!とやる気がでる・・・今すぐにでも勉強しなきゃ・・・努力はちゃんと未来につながっている・・・高校時代の模試の判定がE判定だったと聞いて、安心しました。私は全部Eだったので気持ち的に諦めかけていました。でも、自主的に勉強したいなーって思えました。」「『誰かのために勉強する』という言葉がとても印象に・・・良い成績を取るために勉強していたこともあったので、誰かのために、役に立つ勉強を自分から進んでやってみようと思いました。」「大学がどこであろうとも自分のやりたいことがはっきりしていてそれが達成できれば十分だ・・・必ずしも良い大学に入って良い仕事につけるとは限らない・・・」「看護師は医師を支えたり、患者と深く関わる存在だからこそ、コミュニケーションが大切だと改めて感じました。信頼関係をもつことはその人の大切にしていたものや人生を尊重し治療を行うことにつながると思うので、相手の立場に立って考え、共感することも大切だ・・・」「『患者さんは病気であることだけではない』という言葉がとても印象に・・・入院した際のケア、退院後のケアまでを看護師が責任持って管理しなければ・・・患者さんそれぞれの人生など相手の立場に立って考え、心のケアも病気のケアと同じくらい大切だ・・・」「病気と闘っている患者さんはとても不安・・・その不安をなくせるくらいに看護師は強くないといけない・・・その強さとなる原因は患者さんへの思いだ・・・」等々、教員が間接的に伝えるのではなく、現職で、なおかつ、年齢的に近く、しかも、直接の先輩から伝えられた「やりがい」や「魅力」は確実に伝わっています。社会貢献や社会奉仕の視点は、お金には換えられない、まさに‘priceless’な「やりがい」と密接に繋がっています。こういうコロナ禍だからこそ、「世のため・人のため」になる経済活動って何だろう、と思考を巡らすチャンスなのだと思います。悩みましょう、一緒に考えよう。いつでも、お越しください。

 看護師で思い出した話題を。2年前、金大附属病院にて2週間、手術・入院しました。脳ドックで影が写り、精密検査でも良性か悪性か判断できず、結局、手術で全て除去した後、その腫瘍を全て検査することになりました。右耳後方からあごの下、首の一部まで、結局、24針縫いました。顔面神経が多数走っているところにメスを入れるので、術前説明では、手術そのものが上手くいっても、顔面麻痺やひきつりが残る可能性も説明されました。「万一、悪性やったら・・・顔がぴくぴく、ひきつるって・・・」それ以外にも、手術・入院費用は?余命、~ヶ月って言われたら?それより、女房に何って言おう??(数ヶ月前に診断が下って、手術日が決まっていても、話を切り出せなかった・・・東京の長男にのみ相談してました。後で彼女から怒られる怒られる。でも、まあ、言えなかったのです・・・)不安しかない状態での、あの大病院への入院。その時の担当看護師さんの献身さ・優しさ、忘れることができません。(患者さんが看護師さんに恋する気持ちってこういうカンジなのか、なんて思った次第です。身も心も弱っている時の優しさは・・・染みるよねえ。相手はお仕事だとわかっていても・・・)附属病院に勤務する教え子(医師・看護師・作業療法士・理学療法士・放射線技師等々)も数知れず。どこで情報が伝わったのかは知りませんが、術後、真っ先にお見舞いに来てくれたのが、堀最後の担任を務めた二水38Hの教え子二人。当時、二人とも附属病院で助産師として活躍中。こっちはぐったり、弱っているにも関わらず、満面の笑顔で「大丈夫ですかあ?」と訪ねてきました。点滴の中身とか確認し、「ふーん、大丈夫そうですねえ。」などとつぶやきながら、「これ、差し入れです!」と目の前につきだしたのが、白いキャップにマジックで、「まるほマーク」(〇の中にひらかなで「ほ」と書く、堀のトレードマーク)が書かれた、リポD2本!「おー、これは・・・」「そうです!陸上競技大会で優勝したとき、先生がお祝いだあ!祝杯をあげるぞー!って全員に冷えたリポD差し入れてくれましたよね。全部の瓶のキャップに「まるほマーク」入れて。今日は私たちから、お返しです。あの空き瓶、みんな、まだ、記念にとってあるみたいですよ。」粋なお見舞いです。泣けました。ありがたくて。その後ほどなく、錦で担任した教え子も。当時、附属病院のER(emergenncy room:救急救命室)勤務。あたりまえだけど、勤務は通常の病棟看護以上に責任重大かつ深刻な事例ばかりとのこと。夜、勤務解除の後、寄ってくれました。諸君の先輩です。「新婚なのに、早く帰してあたりません。」なんて、ぐちってましたっけ。おのろけ話も聞きましたっけ。「そういえば、スキー部のあの子、今どこで看護師しとるん?」「あー、あの子、日本全国、点々としてます。看護師資格って全国どこでも通用するから。行く先々で、『看護師募集』の病院探して、半年くらい住み込みで看護師しながら、日本中、旅してます。若い看護師で、そういう生き方してる子、けっこういますよ。」とのこと。諸君の先輩です。離島は特に歓迎されるらしい。ナルホドね。自由ってスバラシイ。それにしても、このコロナ禍、今どこでnurseしてるんやろ?じっとどこかにstayして、世のため・人のため、silent partnerしてるんやろか?そろそろ、いろいろお話し、聞いてみたい子の一人です。

 さて、お便り紹介。

 上はオーストラリア・シドニーから、下はイギリス・ロンドンから届いた教え子からのお便りです。辰巳丘高勤務時、1・2年時の担任、3年時は授業担当のみでした。石川県で中学校の英語教師として激務をこなすかたわら、独自に勉強を重ね、文部科学省の試験に合格した努力家です。晴れて、日本を代表する教師として、シンガポールの隣国、マレーシア・クアラルンプールの日本人学校で日本人中学生に英語を教えていました。(この子たちの親は、国際的大企業や大使館勤務。日本を代表するエリート揃い。)赴任満期限界の3年間、見事に勤め上げました。日本人学校というのは、世界各国に点在し、日本国外で日本にいるのと同等の教育を施す、文部科学省管轄の、小中学校義務教育段階にあたるこどもたちを教育する機関です。日本人学校の教員採用試験は、全国募集で倍率もさることながら、受験者の学力レベル・教えるレベルも高く、難関です。それは、給料をもらいながら、しかも、帰国後は以前の日本の所属校に普通に復帰できる身分保障を保持しつつ、世界へ飛び出せるからです。さらにダブルサラリー。受かった後は、日本の所属校でもらっていた給料はそのまま、本人口座に振り込まれつつ、赴任先の日本人学校でも身分相応の給料が現地で支給される仕組み。自然とおマネー貯まる貯まる。おいしいんです。さらにさらに!パスポートは我々の持つ普通旅券ではなく、外交官パスポートと同じ特殊旅券で、出入国審査や税関の際も、一般人とは別のゲートを使い、並ぶことなんて全くなしで、ほぼフリーパスという特権までついているのです。(こういう知識があると、高校より中学校の教員になりたい!というセンセがいるのも肯けますよね?)クアラルンプールは、全世界とつながるハブ空港の1つ、シンガポール国際空港と陸続きなので、ちょっとした休暇があれば、「どこでもドア」状態。文面にあるとおり、ハリラヤ休みになる度、シドニーへ、ロンドンへ、飛び出せ!マレーシア!してたってわけ。当時のNew HorizonⅠのUnit 10に出てくるところへ、実際行ってみてるところはプロ根性でしょうか。Seeing is believing.も、彼が高校生だった頃、しょっちゅう、生徒に語りかけていた堀の口癖でした。「実体験に優る真実無し!迷ったら行ってみる!やってみる!食べてみる!」というメッセージを常に発信してました。

 ところで、彼、学力的にもよっぽど優秀な高校生だったんだろうな、などと思っている諸君も多いでしょう。全く違います(と言い切るのも彼に失礼か?ま、2人の間柄なんで。)。いつも明るく陽気で、彼の周りは常に笑いで満ちてはいました。でも、いわゆる、5教科偏差値は平均より下。数学で苦しむこと多く、なんとか赤点を免れていた、という程度でした。真面目に授業を受け、提出物はきちんと出していたので、ギリ・セーフ、といった感じでした。「なりたい自分」は英語教師。その英語も80点台をキープしている程度で、クラスのトップ10にも入るかどうかでした。大学入試も数学が足を強烈に引っ張り、結局、私立3教科型となり、第4志望の地元の北〇大外国語学部(当時)のみ合格。合格発表直後はショックをひきずってましたが、「『なりたい自分』になるためには十分な踏み台や!4年後の石川県の教(員)採(用試験)に一発合格すれば、それでいいんや!ぶれるな!大学は所詮、通過点なんやぞっ!(英語教員の世界で)待っとるぞ!!」と送り出しました。その4年後、見事に一発合格。念願の中学校英語教員としてのキャリアをスタートさせたのでした。大学での英語力をはじめとする教員免許取得に向けた努力は相当のものだったようです。高校2年時に行ったホームステイ先に、夏休みになると、航空券のみ購入して渡米、ワイオミング州に数ヶ月滞在、という生活を3回繰り返し、大学4年時の教採に備えていました。教員になってからもその交流は続き、ついには、家族同然の扱いで、フロリダのディズニーワールドで行われるステイ先の兄弟の超豪華結婚式(ホームステイ先は会社経営者、富豪。)に往復航空券付きで招待状を受け取るまでになっていました。<ちなみに、泉の教え子で、東京外大卒でも、石川の教採突破に2年かかった子もいるし、二水の教え子で、同志社大卒でも、3年かかった子もいます。偏差値の高い、いわゆる「ブランド」大学に入学して、勘違いして、油断したりすると、「うさぎとかめ」のようなことが起こりうる、ということです。諸君は、ゆめゆめ、油断した「うさぎ」とはなりませんように・・・>ではでは。今日はこの辺で。CU ASAP!!