沿革

【金沢錦丘高校の沿革】

 本校はその起源を明治32(1899)年の石川県第二中学校の開校に発しています。
 石川県第二中学校は、明治34(1901)年に「石川県立第二中学校」、同40(1907)年に「石川県立金沢第二中学校」(通称:「金沢二中」)と改称しながら発展をとげ、幾多のすぐれた人材を世に送り出してきました。

 戦後の学制改革(昭和23年、24年)では、「金沢一中」が金沢泉丘高等学校、「金沢三中」が金沢桜丘高等学校という後継校を得たのに対し、金沢二中は、その校舎が新制の紫錦台中学校に転用されることとなり、後継校を得ないまま閉校となってしまいました。なお、現在、金沢第二中学校の校舎は「金沢くらしの博物館」となっています。

 昭和38(1963)年、金沢地区に普通科の高校が新設されることになった際、金沢二中の同窓生の間からは後継校を切望する声が上がり、本校が旧制石川県立金沢第二中学校の後継校として発足しました。
 「金沢錦丘」という校名は金沢二中の校歌の一節にある「紫錦が陵(にしきがおか)の学窓に」という歌詞から取られており、本校の校章にある梅鉢は金沢二中の「梅章」にちなんでいます。また、本校の校歌には「紫錦(しきん)の空」「梅章校」という、金沢二中との強い一体感を示す言葉が盛り込まれています。

 平成16(2004)年度に県内初の県立中学校である金沢錦丘中学校が併設され、本校は県内唯一の併設型中高教育一貫校として県内最大規模の学校となりました。
 その後、平成22(2010)年には新校舎が竣工し、平成25(2013)年の創立50周年を経て、次の創立100周年へと新しい歴史を重ねているところです。

校歌について

【制定のいきさつ】
開校1年目の昭和38年、卯辰山で行われる高等学校相撲金沢大会に参加した際、本校の生徒は応援歌がないことを寂しく感じた。そこで生徒会が中心となって応援歌の歌詞を生徒・職員から募集したところ、金沢二中出身で眼科開業医の 長岡 博男 (ながおか ひろお)氏 が作品を応募してきた(長岡氏と 前田長宗 初代校長 は金沢二中の同級生でもあった)。その作品は応募作品の中でひときわ格調が高く、応援歌よりも校歌にふさわしいという意見があり、同年11月の職員会議で長岡氏の応募作品を校歌の歌詞として使うことが決定した。作曲は当時金沢二水高校で音楽を教えていた 鴛原 利蔵 (おしはら としぞう)教諭 が担当した。

(参考文献)
・『金沢二中・錦丘高校校史』(昭和48年)
・『物語二中・錦丘<85>』「校歌できる」(北陸中日新聞 昭和56年8月25日朝刊)

【作詞者】

長岡 博男(ながおか ひろお) 明治40(1907)年 - 昭和45(1970)年
金沢二中を卒業後、東京医学専門学校(現・東京医科大学)に進んで医学を学びつつ、民俗学者の柳田國男に師事した。その後、金沢市味噌蔵町で眼科医を開業するかたわら、「金沢民俗談話会」、「加能民俗の会」を設立・主宰した。
眼鏡に関する資料の収集でも知られ、「長岡博男眼鏡コレクション附眼鏡史関係資料」(石川県歴史博物館所蔵) は県の有形民俗文化財に指定されている。
著書に『日本の眼鏡』(東峰書房、1967)、『加賀能登の生活と民俗』(慶友社、1975) がある。
 

【作曲者】
鴛原 利蔵
(おしはら としぞう) 大正4(1915)年 - 昭和52(1977)年
東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)で学んだ後、石川県の高校で音楽の教師となる。金沢二水高校で合唱部を指導し、昭和28年のNHK全国唱歌ラジオコンクール(現・NHK全国学校音楽コンクール)で最優秀賞(第1位)を受賞するなど優れた成績を収め、「合唱の二水」を築いた。教員生活の晩年には県立盲学校鶴来高校の校長を務めている。
本校の校歌より早く、昭和29年に白山市立白峰小学校の校歌を作曲している。また、昭和41年に開校した小松市立松東中学校の校歌の作曲も手掛けているが、同中学校は令和3年に小松市立松東みどり学園に統合され、校歌は別のものとなっている。
 
【歌詞の特徴】
作詞者の長岡博男氏が金沢二中出身であったことから、「紫錦」、「梅章校」という、金沢二中にちなんだ言葉が使われ、金沢二中と金沢錦丘高校のつながりを強く意識した内容となっている。
また、歌いだしの「山科の里の傳説(伝説)」とは、金沢に伝わる「芋堀り藤五郎」伝説のことであり、作詞者の民俗学者としての側面が現れている。なお、山科(京都の地名ではなく金沢の地名)は芋掘り藤五郎が住んでいた場所とされ、本校から約1kmの場所には「芋堀藤五郎神社」がある。
なお、金沢市、野々市市、白山市にある県立高校15校のうち13校の校歌の歌詞には、「白山」「海(日本海)」の少なくとも一つが含まれているが、本校(および金沢辰巳丘高校)の校歌にはいずれも登場しない。 

文芸の錦丘

【文芸の錦丘】

 旧制金沢二中から金沢錦丘高校へと続く100年以上の歴史の中で、数々の文芸の才能を持った卒業生を輩出しています。作家としては、堀田善衛さん(1952 芥川賞)、唯川恵さん(2001 直木賞)、本谷有希子さん(2016 芥川賞)が、脚本家としては水橋文美江さんが有名です。

今も本校には、「文芸の錦丘」の伝統が引き継がれており、吹き抜けの素敵な図書室(本校ではマルチメディアセンター)には、生徒たちが集い、文芸活動が盛んに行われています。

 

歴史
昭和38年1月 石川県立高等学校設置条例(石川県条例第60号)により普通科,家政科(募集人員普通科500名,家政科100名)の全日制高等学校として発足する。(金沢市兼六中学校跡を仮校舎とする。)
昭和38年4月 前田 長宗 初代校長となる。
昭和39年4月 石川県金沢市窪町に校舎を新築し,移転する。
昭和40年4月 張江 啓 第二代校長となる。
昭和40年4月 体育館,武道館,図書館が竣工する。
昭和40年6月 全校舎竣工,落成記念式を挙行する。
昭和41年1月 昭和41年度より家政科募集停止となり普通科のみ募集する。(募集人員500名)
昭和41年4月 西村 三郎 第三代校長となる。
昭和42年7月 プール竣工
昭和45年1月 第1学年募集定員432名となる。
昭和46年1月 第1学年募集定員376名となる。
昭和46年4月 高堀 勝喜 第四代校長となる。
昭和47年1月 第1学年募集定員360名となる。
昭和48年4月 石川 正一 第五代校長となる。
昭和48年8月 同窓会記念館竣工
昭和48年10月 講堂兼体育館竣工,創立10周年記念式典挙行
昭和51年1月 第1学年募集定員405名となる。
昭和51年4月 西野 哲也 第六代校長となる。
昭和55年1月 第1学年募集定員450名となる。
昭和55年4月 山上 俊夫 第七代校長となる。
昭和57年1月 第1学年募集定員405名となる。
昭和58年1月 第1学年募集定員450名となる。
昭和58年9月 創立20周年記念式典挙行
昭和59年4月 教室棟(3室)増築完了
昭和60年4月 西能 史郎 第八代校長となる。
昭和60年5月 運動場整備完了
昭和62年3月 校門竣工
昭和62年4月 安田 進一郎 第九代校長となる。
平成2年4月 道井 登 第十代校長となる。
平成2年11月 文部省学校教育設備事業によりパーソナルコンピューター23台設置。
平成3年1月 第1学年募集定員405名となる。
平成3年9月 教室棟大改造工事完了
平成4年1月 第1学年募集定員400名となる。
平成4年4月 中島 幹夫 第十一代校長となる。
平成4年9月 管理棟大改造工事完了
平成5年8月 紫錦ホール竣工
平成5年9月 創立30周年記念式典挙行
平成6年3月 第1体育館,第2体育館大改造工事完了
平成6年4月 北木 邦男 第十二代校長となる。
平成7年1月 第1学年募集定員360名となる。
平成8年3月 体育館横部室(9室)増設
平成9年4月 徳田 寿秋 第十三代校長となる。
平成11年9月 石川県立金沢第二中学校・金沢錦丘高等学校創立100周年記念式典挙行
平成11年12月 情報室開設 パーソナルコンピューター44台設置
平成12年4月 寺島 恆機 第十四代校長となる。
平成14年4月 二学期制施行
平成15年2月 推薦入試実施
平成15年4月 村井 加代子 第十五代校長となる。
第1学年募集定員320名となる。
石川県立金沢錦丘中学校設立準備室設置
平成16年4月 石川県立金沢錦丘中学校併設,文部科学省研究開発校に指定される。
平成17年4月 鈴森 庸雄 第十六代校長となる。
平成18年1月 新体育館及び中学校棟竣工
平成18年4月 石川県立金沢錦丘中・高等学校 全6学年の生徒がそろう。
平成19年4月 山下 一夫 第十七代校長となる。
平成20年1月 高校棟(2期工事分)竣工 
平成20年4月 久下 恭功 第十八代校長となる。
平成22年4月 表 純一 第十九代校長となる。
第1学年募集定員360名となる。
平成22年8月 高校棟(3期工事分)竣工
平成22年10月 校舎完成記念式典挙行
平成23年4月 第1学年募集定員320名となる。
平成25年4月 宇都宮 博 第二十代校長となる。
平成25年9月 創立50周年記念式典挙行
平成26年4月 井戸 章彦 第二十一代校長となる。
平成28年4月 藤田 耕造 第二十二代校長となる。
第1学年募集定員360名となる。
平成29年4月 第1学年募集定員320名となる。
平成30年4月 宮本 雅春 第二十三代校長となる。
平成31年4月 堀 義明 第二十四代校長となる。
令和4年4月 朝田 肇 第二十五代校長となる。
令和5年9月 創立60周年記念式典挙行
令和6年4月 森 博之 第二十六代校長となる。