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100周年記念誌

【100周年記念誌】津高探訪⑦「大正のマリン実習 他)

スポーツ健康科学科3年生 マリン実習Ⅱ ※令和4年6月22日 滋賀県大津にて

 

河北農蚕学校、津幡農蚕学校、津幡農学校では「校友会」(現在の生徒会)が活発に活動し、さまざまな行事が行われた。(「津幡高校50年史」より)

(学校行事)

●水泳大会(現在のマリン実習) 

 毎年7月21日から外日角海岸で行われた。大正13年(1924)には、観海流、水泳免許を持つ内藤見一氏の指導で、日本古来の抜き手泳法で、10日間。大正15年には、藤井鶴太教師の下で一週間、以後、昭和14年まで続いた。

 勿論、最終日には。10町、25町、三里半といった遠泳試験があり、不合格になっても、舟に乗られるのが楽しみの一つであった。

●修学旅行

 

●運動会、競技会(現在の体育祭、陸上競技大会)

 大正14年(1925)9月13日、津幡第二社会体育場で、第1回の運動会が実施されている。リレー、バスケットボール投、走幅跳、走高跳、などが行われた。一方運動会は、年々近代化、戦時化され、昭和10年(1935)頃より、仮装行列、弾薬運搬、資源獲得、長期建設という、軍事色豊かな種目へ変更している。

 

学生たちがかぶっている帽子を拡大する

(校章と白線三条)について

 果てしない宇宙の中から万里の波濤を航海する航海士が、理想の星としている北斗星に三本の白線を配し、帽章のASはAgricultural  and  Sericultural の頭文字をもって農蚕学校を標したものである。蛇腹の白線三条は、学校の所在地、河北の地名にちなんで川を象徴すると共に、地にあっては農耕に不可欠の水利を表すもので、白線三条の

 一条はもって質実  一条は剛健  一条は至誠

これらが一体化され、川の流れが四時絶することなく、理想の海へと注ぐに至る不屈不撓の精神を力強く示すものであり、天にあっては微動もしない理想の星、北斗は河北の北を象徴すると共に、地域農村の開拓指導の先駆者を育成しようとする意図を示した。

【100周年記念誌】津高探訪⑥「姫小松異変!?」

「姫小松」は平成5年、70周年記念事業による改修工事で今の場所に移植された。

●「姫小松」(生徒玄関グラウンド側) 

 「姫小松」について、『津幡高等学校五十年史』第三部第三節「西教場焼失」には、

 「元高等女学校の校舎の焼失にともなって女学校卒業生の悲しみは人知れず、そのことにより母校への愛着がうす れていくことがあってはと、当時の職員の努力によって何らかの形でそのおもかげを後世へ残そうとする努力が続けられた。校門前の希望の像近くに現在も植えられている松の木は、元津幡高女の校歌に歌い込まれている姫小松であり(女学校通用門右側にあったもの)、当時のなごりを偲ぶことができる。」

      (津幡高等女学校校歌)三番の歌詞

   嵐をしのぎ雪にたへ

   ときわの色の鮮やかに

   のびてやまざる 姫小松

   ああその如くすこやかに

   御代の光のあきらけさ

   学びの園においたたん

 

●「姫小松」 ※女学校跡地からこの場所に移植された。

●昭和62年(1987)玄関改修工事後

  ところが、この「姫小松」に異議を唱えたのが杉本さん(女学校18回卒、同窓会副会長)だった。『同窓会報』(第2号)に「姫小松異変!?」として

 「ここに思いもかけなかったハプニングが起こりました。焼けた旧女学校校舎から、現高校正面に移植されていたはずの姫小松、女学校の思い出を残す者たちにとって唯一無二の姫小松が、何時、何処でどうすれ違ったものか、黒松に変わっていたのです。

  (その後調査したものの)

 「結論として現地で見ていた者の方が・・・・。と云うことになりました。」

 

 とあり、「・・・・」の箇所は不明であるものの、その後にこう続く。

 

「しかし失くなってしまったものは致し方ないことです。間違えられたとしても、現に黒松一本、貝塚息吹。いすのき50本あまりも垣としてのこっております。」

 

 現在の「姫小松」も、かっては女学校にあったものであり、当時の女学校生徒を見守っていた。津幡高校「姫小松」も女学校に続き、津幡高校生徒を見守っている。

【100周年記念誌】津高探訪⑤「津女気質」

 昭和23年(1948)4月、女学校は農学校と併合し津幡高等学校が誕生する。津幡女学校の21年間、いくつかの行事を振り返ってみる。(50年史、同窓会館展示のアルバムより)

●運動会

 昭和5年10月23日第1回の運動会が開かれた。

 

●修学旅行

 昭和5年10月7日、四年生は寺西・北川教諭引率のもと、5日間の第1回修学旅行に出発した。行く先は関西方面であった。昭和6年第2回修学旅行は関東地方に向かった。以後隔年ごとに昭和16年度まで実施されている。しかし、戦雲急を告げ始めた18年からは、旅行どころではなく、その後、再開は戦後の21年まで待たなければならなかった。

 ○第1回修学旅行(関西)

 

○第2回修学旅行(関東)

●水泳・スキー実習、白山登山

 学校の組織として、鍛錬部が設けられ武道、遠足登山、水泳、競技、スキー、排球、卓球が盛り込まれ、その一つには

白山登山があった

 ○スキー実習

 

○水泳実習

○白山登山

●白衣縫製

 県では、県下女学校生徒に傷病者の白衣をぬわせ、縫製費を軍病院献納金とすることになり、学校では休暇中に全校生徒一斉に、その作業に当たった。できあがり品について、検査がきびしく、わずかの僅差もゆるされない状態で、生徒一同は真剣な眼差しで縫製にあたった。

 

 ●創立10周年記念式

 昭和12年(1937)10月20日、創立10周年記念式典が挙行された。午前10時より、県知事その他来賓父兄多数を招待しての盛大なる式典であった。

 (式次第)

1 敬礼  2 君が代  3 勅語奉読  4 学校長式辞  5 長官告示  

6 来賓祝辞  7 卒業生総代祝辞  8 生徒総代祝辞  9 勤続職員表彰

10 校歌  11 敬礼 

 

 

●ブラスバンド誕生

 昭和16年(1941)2月1日に設置された鼓笛隊に、同年4月24日在校生徒および父兄有志寄贈によるブラスバンド楽器一揃がとどき、各種大会に活躍する。

 

 

  「津女気質」とは

 津女生の大多数が河北郡出身者で占められており、家庭の職業は農家が圧倒的に多かった。その関係からか、のびのびと明るく、素直で労をいとわぬ勤労の精神が育っていった。生徒の気風は純朴で作業を好み、勤労を愛し、協力し合い、競って自己の本分をつくす傾向があるといわれた。

【100周年記念誌】津高探訪④「女学校設立」

●津幡町津幡にある「実生こども園」前左脇に建てられた石碑

 昭和61年10月30日、津幡町津幡に赤御影石に中山先生の揮毫による「石川縣立津幡高等女学校蹟」の文字と校章が入った石碑が建立され、除幕式が行われた。除幕式に参加した女学校卒業生は

 〈同窓会副会長杉本さんが、「旧女学校の跡地に我々が此処で学んだと云う証明になるもの、石柱一本なりと建て

 てほしい」と云われた切なる願いは、私達女学校に学んだ者を代表する発言であり、皆の切実なる願いでもあった

 のです。(中略〉除幕式当日は雨が降り肌寒い日でしたが祈りが通じて時折晴れ間もありました。式典の挙行され

 る午後二時近くなると喜びを隠しきれぬ顔、顔、顔、遠方からの顔も混じり跡地には百名あまりの予想を越えた同

 窓会員の大集合になりました。〉

 

 昭和2年4月、県より河北郡町村学校組合の経営による高等女学校の設置許可が下り、組合立津幡高等女学校が開校した。仮校舎で42名の第1回入学式が行われた。2年後の昭和4年9月、新校舎が完成し、落成式が行われた。

 さまざまな困難を経て、昭和7年4月県立に移管し「石川県立津幡高等女学校」と改称された。日中戦争が始まり、日本が軍事色を強めていく中、津幡女学校も昭和13年、勤労報国隊が結成された。生徒は勤労奉仕に動員され、安閑と勉強をしている雰囲気ではなかった。

 そして、昭和19年、学徒動員により上級生は軍需工場へ、下級生は食糧増産の勤労作業に出かけることになる。その中で昭和20年8月、終戦を迎えた。

●竣工当時の校舎

 

 

 

【100周年記念誌】津高探訪③「雨読晴耕」

●津幡農学校の正面玄関に掲げられていた扁額

『津幡高等学校五十年史』には「大正13年(1924)四月、当時の長谷川知事は「雨読晴耕」の四文字の揮毫を三浦校長(農蚕学校初代校長)に授けられ、それより本校の校訓として」とある。また『同窓会報』や『同窓会誌』にも当時の思い出として紹介される四文字である。

 一つの疑問として、なぜ、本来の「晴耕雨読」ではなく「雨読晴耕」なのか。『五十年史』には

「校訓にも示されている通り雨読晴耕ということであって、雨の日は専ら読書に耽り、勉強第一主義で、晴れた日は外へ出て農耕に励み、学理と実際を一体化する知行合一の教育を重んじた。」とあり、農蚕学校、農学校でも、学生は学びが第一であることを訓じたものと推察される。現在、この四文字は、農学校卒業アルバムの1ページに見ることができるが、

もう一つの疑問として、農学校に掲げられていた扁額はどうなったのか。今も存在するのか。不明である。

 『五十年史』には「津農気質」という一節があり、そこには「津農魂」について、

「県下の屈指の農業校として輝かしい伝統の中から、津農生の気風にも、どことなく誇り高いものがあった。開校当時の入学生には、地主の子息がいたが、百姓には学問が不要であり、ぜい沢であるとの農村の一般的考え方から、生徒数は少なかった。教師一人に生徒七人という割合で、実に家族的精神がみなぎっていた。正に校訓の示すがごとく雨読晴耕であった。」

また、「鍬を肩に、土に恋慕し、共に鋤ををもち、肥をかつぎ、土を相手に生きたが故に、本校生の特質として、〈泥くささ〉は天下に響いていた。純朴でおっとり型で誰からも好かれるタイプ、裏面にはしんが強く、困苦欠乏に耐え、大地に足のついたねばりをもつ津農魂ともいうべきものが見られる。」とある。

そして、この一節の中には、「きれいな校舎」として、

 「本校の特色の一つは、農場は勿論、校舎の隅々まできれいに清められていて、公共物が大切に取り扱われ、整理 整頓がよく行きとどいていた」とあり、県知事が学校に訪れた際のエピソードが紹介されている。知事は帰られる時、舎前に整列している生徒に

 「こんな綺麗に掃除された学校、机に傷一つない学校はない。県下の範として足る」といわれ、車に乗られたということである。

 

                                     

 

【100周年記念誌】津高探訪②「農学校門柱」

●陸橋側から見た現在の門柱(平成6年6月記念碑建立 写真左)

かっての津幡農蚕学校が建てられた場所、手前にある2本の古い石の門柱が「石川県立津幡学校」の正門跡である。(平成6年6月記念碑建立)

 昭和4年の世界恐慌のため、養蚕業は大きな打撃を受ける。それまで大きな販路となっていたアメリカに対する生糸の輸出が不振におちいったため、蚕の値段が急激に下落した。その結果、養蚕では各農家の経営が困難となり、卒業生の就職も難しくなった。この流れの中、「津幡農学校と改称しては」という地元民からの要望が高まっていった。

 卒業生が海外に進出したり、就職を志す場合、どうしても名前にとらわれ、農蚕学校では蚕科を主とするような学校のように考えられ、農学校出身者の方が優先的に採用される傾向もあった。学校側は養蚕学校創設以来尽力した方たちの了解を求めて、昭和11年3月、校名を「石川県立津幡農学校」と改称した。

●旧校舎(津幡農学校→津幡高校)写真(1966年〈昭和41年〉津幡高校第18回卒業アルバムより)

 

【100周年記念誌】津高探訪①「地域の熱い要望」

 大正13年、河北郡に農学校という地域社会の熱烈な要望の中で、河北郡町村組合立河北農蚕学校の設立が認可され、開校の運びとなった。「熱烈な要望」について『津幡高等学校五十年史』には、

「中学校が金沢に集中していることをあげ、郡部に設立して、男子の教育をするよう強く県に要望した」

「農業校設置状況は、全国で最下位で、農業県石川の名に恥ずかしいと北國新聞は、農業校設立の必要を力説した」

「世論を受け、山県県知事は、能登に農業、加賀に工業の構想を明らかにした」とある。

 河北郡自治公会堂を仮校舎とし、実習地を津幡町加賀爪にすることとなった。大正13年4月、55名の新入生で入学式が行われた。その後、大正15年3月、県立に移管することとなり、校名を石川県立津幡農蚕学校と改称することになり、加賀爪に新校舎が建設された。さらに昭和12年ころまで実習施設の新築、増築が相次いで行われ、あわせて実習農地も増加し、生徒一人あたりの農地は全国一の大きさを誇った。

●(陸橋側から撮影された石川県立津幡農蚕学校 ※昭和4年〈1929〉津幡農蚕学校第3回卒業アルバムより)

校舎建設にあたり、『津幡高等学校五十年史』には、

 「鍬をかついで、毎日、仮校舎から実習地まで通いながら一日も早く校舎のできあがるのを待ち焦がれていた。5月  初めから校舎建設予定地である加賀爪ヲ45番地付近へ、これまで見たこともない大きな外材や赤い瓦が到着した。毎日実習に行くたびに、校舎のできあがる状態を眺め、「おい、できるぞ、できるぞ。」とはしゃぎ回り、材木の上や瓦の上にあがって、大工や先生方に叱られたということである。」

また、9月来賓を多数迎えての落成式では、

 「床には油が塗ってあり、ペンキの香りと木の香りが交錯する。祝賀のしるしに学校からもらった小さな紅白のまんじゅうを、二つ一度に口の中に入れて抱き合って喜んだ。正面玄関、三角屋根の赤瓦が、生徒の忘れがたい青春のシンボルであった。」

とあり、当時の生徒たちの喜びがうかがえる。

 

【100周年記念誌】津幡高校100年の歴史を記念誌に

100周年記念事業の一つとして「津幡高校100年誌」を発刊します。

192ページに津幡100年の歴史をまとめていきます。

現在、編纂作業がスタートしてから1年が経過しようとしています。

このブログでは、100年誌に掲載予定の内容について、ダイジェストで紹介します。

また、編纂の過程で、発見したこと、不明なことなども掲載していきますので、

ご意見などがございましたら、記念誌編纂作成委員会まで連絡ください。

●100年誌 イメージ