〒929-0325 石川県河北郡津幡町字加賀爪ヲ45番地【アクセス】
TEL : 076-289-4111 FAX : 076-288-4168
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令和3年度より製作を開始した「百年史」が完成しました。
18p~45pの津幡高校100年の歴史を振り返る「創生」「萌芽」「結花」「開花」「充実」「発展」はパネルにし書道室前に設置しました。
令和5年1月28日(土)、津幡町総合運動公園で3年ぶりに開催された「第35回津幡高等学校校長旗争奪中学校招待女子バスケットボール大会」は錦城中学校(加賀市)が初優勝を飾った。
男女バスケットボール大会 栄光の記録 中学校招待バスケットボール大会「栄光の記録」.pdf
大会は、昭和61年から始まり、今に至っている。優勝旗には「津幡高校長杯バスケットボール大会」とあり、開催当時は優勝杯が渡されていた。平成元年大会より、かほく市の企業から男女の優勝旗が寄贈され、優勝チームに渡されている。男子は青、女子は赤の優勝旗である。
中学校招待試合は、女子バスケットボールの他に、男子バスケットボールも開催されている。柔道は更に前の昭和52年より開催されており、当時の先輩会会長より寄贈された優勝旗が43回大会優勝の高尾台中学校に渡された。
(柔道出身中学校交歓柔道大会 栄光の記録)出身中学校交歓柔道大会「栄光の記録」.pdf
「旗」といえば本校には「部旗」を持つクラブが柔道・女子バスケットボール・ソフトボール・ウエイトリフティング・剣道・なぎなたの6部ある。それぞれ保護者会や卒業生、OB・OG会から寄贈されたもので、今も大会等で会場に掲げられる。
昭和49年に柔道部初代部旗を作った南谷直彦名誉監督(16代津幡高校長)は自書の『津幡高校柔道部~四半世紀の歩み~』でこう述べている。
この年(昭和49年度)柔道部旗を作った。参考にしたのは鎮西と天理であった。多くの学校は闘魂とか執念といった文字の下に、何々県何々高等学校と書いてあった。鎮西は漫画にまでなった高校であり、天理は何度も全国優勝をした学校である。気恥ずかしかったが、校章を挟んで《津幡柔道部》とした。最初は「(つはた)とはどこの県か?」の声が応援席で聞こえたが、現在では津幡が石川県であることを知らない柔道関係者はいない。
昨年12月には、ウインターカップで女子バスケットボール部の部旗が会場に掲げられ、選手の活躍を見守った。
次は令和5年3月、日本武道館に柔道部の部旗が掲げられる。
(柔道部2代目部旗)
令和4年10月23日(日)、専光寺のソフトボール場で石川県高等学校新人体育大会ソフトボール競技の決勝戦が行われた。津幡高校vs金沢高校の戦いは0-6で金沢が制し、津幡は準優勝となった。
津幡高校ソフトボール部は昭和41年「クラブ全入制」を機に新設された。42年度に赴任された長島健治監督のもと、昭和44年より頭角を現し、45年には県内の大会のうち新人大会を除く他のすべての試合で勝利し、全国高校選手権大会ならびに国民体育大会出場という輝かしい成績を収めた。その当時、作成されたアルバムが長嶋監督直筆の巻頭言から始まる。
○ソフトボール部記念アルバム 長嶋監督直筆の巻頭言
「このアルバムは昭和45年度(1970年)津幡高校ソフトボール部の輝かしい活躍と貴重な体験を記録した
ものである。華やかな栄誉を勝ちとるために先輩たちが乗り越えてきた幾多の困難や挫折は記録として残すこと
はできない。しかし、勝利の栄冠はそうした先輩たちの苦しさに耐え抜いた汗と涙の結晶であることを忘れては
ならない。
この記録の数々は先輩たちにとって青春を燃やしてクラブ活動に打ち込んだ過ぎし日のよき想い出になり、あと
に続くものにとっては良い刺激となれば幸いである。
ソフトボール部顧問 長島健治
○インターハイ初出場
○国民体育大会初出場
昭和46年度国民体育大会にも連続出場を果たし、活躍は続いていく。シーズン中は厳しい練習で実力を伸ばしていくが、冬季の練習について「冬季トレーニング」として、図説とともに生徒の配付したプリントが残る。
(冬季トレーニング)
1 トレーニングの原則
イ どんなねらいで、どのように行い、なぜそうするのか。知識や理解を深め、自己
のトレーニングに常に反省を加えることが必要
ロ 徐々にトレーニングの強度を増やしていく
ハ 体力と技術を並行して高めていかなければならない
ニ 長期にわたって続けてこそ、はじめて大きな効果が得られる
ホ 個人的条件に即したトレーニング処方を工夫していくことが望ましい
ヘ 専門種目に要求される重要な面を重点的に高める
2 トレーニングを行う前に、行っているとき、終わってから
(省略)
※ ・毎日やるのが望ましいが、一日おきでも効果はそんなに変わらない
・能力の高い者は負荷の大きい種目を選ぼう
・冬季に限らず、いつでも、どこでもやろう
・ランニングがあらゆるトレーニングの基礎であることを忘れずに
○昭和46年度 北信越大会
ここから50年の歳月が流れているが、現在もソフトボール部は毎日の練習に頑張っている。12年前から「津幡家族」という手製の新しい横断幕を作り、そこには歴代部員たちの手形が色とりどりに押されている。「津幡家族」としたのは「練習内容、時間の長さは家族以上のつきあい」とのことである。
「津幡家族」 全国大会での活躍を期待している。
○『津高同窓会報』第7号より
創立70周年記念事業(平成5年)の一つとして、現在の「同窓会館」が建設された。平成3年10月19日発刊『津高同窓会報』第7号に会計報告がある。
●会計報告
同窓会館建設寄付金収支決算書
○収入の部
同窓会寄付金 43,227,740円 一口5,000円
企業寄付金 33,603,970円 企業274社
全・定・PTA 20,190,000円
河北五町寄付金 20,000,000円
同窓会財産 10,950,388円
その他 7,145,244円 現・元・職員有志
雑収入 1,204,345円 預金利息
計 136,321,687円
○支出の部
同窓会建設費 127,974,249円 工事費、備品購入費含む
冷房工事費 3,003,480円 2階広間、3階広間7機
事務費 465,789円 コンピューター用品代
印刷費 1,034,793円 趣意書印刷、宛名シール
記念品式典費 1,848,097円 記念品代」、式典パーティ費
通信費 1,048,183円 郵送料
雑費 947,096円 会合弁当代、振込手数料
計 136,321,687円
当時の同窓会長である中田健二氏より「ご挨拶」がある。
「会員の皆々様には益々ご健勝の事と存じます。
さて創立70周年記念事業の中で最大の同窓会館建設に当たり多大なご協力を賜りお陰様ですばらしい会館が完成することができました。これひとえに皆様方の会員意識の高さと母校愛のしからしめるところと思います。
募金活動に際しましては役員はもとより、会員の皆様、PTA・PTA役員、学校職員の一丸の協力の結果でありました。また企業の方々の大きな大きなご理解とご協力があったらこそと心より感謝申し上げます。 (以下略)」
建設に当たって実に大きな協力があって完成までこぎつけたことがうかがえる。当時1億を超える募金を集めた関係者の熱意とご苦労がいかほどのものであったか。『北斗』31号には藤井同窓会事務局長が会館設立について語っている。
「念願の同窓会館設立」
部活動振興を標榜する本校に、合宿施設が欲しい、との声があがりました。昭和63年9月同窓会理事会で話し合いがもたれました。それは5年後に津幡高等学校が創立70周年を迎える記念事業として、合宿施設建設を10月の総会に正式議件として提出してはどうか、ということでした。(中略)
趣意書作成段階で募金期間が一年を超えてはならないことが判明し、この事業は前倒しか、後送りかの決断を迫られました。諸般を考慮し、すぐ実行すべしの中田会長の一声で、平成元年8月1日同窓会建設募金活動がスタートしたのです。
目標額 1億3千万円
平成2年4月26日の起工式から6ヶ月を経て、見事同窓会館が落成しました。難事業が同窓生の母校に対する熱い思いと関係各位の絶大な支援により実現したのです。(中略)
この同窓会館は同窓生の心のふるさとです。創立70周年は平成5年、どうかたいせつに使って欲しいと念願します。
○同窓会館設立に向けた「募金趣意書」
かくして建設された「同窓会館」であったが、1億3千万の募金を集めるのに、どれほどの労力があったかは段ボール1箱分にもなる当時の資料が物語る。
また、同窓会館設立を待ち望む生徒の声もあった。『同窓会報』第6号で、当時の柔道部主将の吉田幸一さんがこう話す。
「うれしい同窓会館建設」
私たち柔道部は毎年夏季にインターハイ前の強化合宿を行っています。しかし泊まる場所が道場でごろ寝という具合に毎晩、開放された窓から入ってくる蚊との戦いでした。また冬季には寒稽古があり、雪降る中朝6時半から集まって練習します。電車がストップしたときは全員そろわず練習にも影響が出ました。そういうことで私たちが会館完成にかける思いもひとしおです。
更に『北斗』31号に、31H中島紀代美は、建設に感謝を語っている。
「同窓会館設立のよろこび」
今年、70周年創立記念事業である同窓会館が設立されました。同窓会館を建てるまでは、寄付金を集めることは難しいと考えられていました。生徒はもちろん、本校卒業生にまで、大変多くの寄付金をいただき、見事に今年の秋に完成しました。本来ならば、平成5年に設立される予定であったのを三年早く完成しました。
同窓会館の利用については、石川国体に向けた運動部の強化合宿や、進学者のための勉強合宿などがあります。今後、私たち生徒は、津幡高校の活性化のため、主旨にご賛同いただいた方々に感謝し、大切に利用していきたいと思います。
○同窓会館平面図
現在、完成から30年以上経った同送会館、所々で修理を必要とするところがあるが、入った人は皆驚く立派な建物である。コロナ禍で2年、合宿使用ができなかったが、この夏久しぶりに柔道部が一日練習の期間、昼食、休憩に使った。このあとも再び合宿などで同窓会館は使用され、生徒の思い出になっていく。
現在、購買、授業、部活動、合宿、同窓会などで使用する「同窓会館」は70周年記念事業として建設されたものである。50歳後半の卒業生から話を聞く「旧同窓会館」は今は記憶にしか残っていない。構造の違いはあるものの、かってはそこに今の「同窓会館」と同じ光景があった。
○旧同窓会館 昭和38年10月20日完成
創立40周年の中心事業は「同窓会館」の建設であった。昭和40年3月10日発刊『津高新聞』(第49号)に「同窓会記念館落成」について
「本校の同窓会員諸氏が創立40周年を迎え何か記念なるものを、との意向により、旧北校舎跡(現在の図書館棟
グラウンド側横)に同窓記念館(同窓会館)が一昨年(昭和38年、10月20日)完成した。
記念館は平屋建て総面積320㎡。建設費370万円(現在なら1500万)、うち同窓会員(6千人)が300万円、郡町村
と農協長会が50万円、残りはPTA関係者が寄付してくれた。内部は大ホール、大和室、小和室、同窓会事務室
の各室がある。(写真は記念館を正面に望む)
とある。新聞には「創立40周年事業経過」として、事務局の高木徳久が述懐する。
「昭和35年度の総会において母校創立四十周年記念事業推進のため記念事業募金として5千円を予算化してから
二カ年、如何にして四十周年にふさわしい事業計画を、そして遂行する方法について、機会あるごとに話し合い
をいたして参りました結果、昭和37年8月の総会において、記念誌の発刊、記念館の建設、同窓生の追悼法要をす
ることにまとまり、各位に配布いたしました趣意書の通り、募金に着手しました。(中略)
しかしながら300万円の記念館建設基金は、各位のご芳志にもかかわらず思うにまかせず、再三にわたり格別の
ご芳志を得て、去る12月24日銀行から借り入れたものを漸く返済することができました。(中略)
記念館は、図書館、茶室、同窓会事務室として活用されており、在校の生徒諸君も感謝しながら喜々として読
書にいそしんでおります。」
その後、同窓会館は生徒会館として親しまれ、主に休暇中(春、夏)のクラブ合宿、購買部、茶道部、生徒議会、種々のレクリエーションや集いの場として幅広く利用される。
70周年記念事業で建設された新同窓会館の完成とともに役割を譲り、老朽化もあって平成3年に取り壊された。生徒会館として購買の利用、合宿など思い出として話は聞くが、内部の写真や使用の様子など写真は残っていない。
○県立津幡高校40周年記念事業「同窓会館建設会計決算」
●収入の部
一般賛助金 764,000円
同窓会一般会計より 70,000円
会員寄付金 2,196,300円
利子 9,605円
収入総額 3,039,905円
●支出の部
建築費 3,000,000円
借入金支払利息 35,225円
支出総額 3,035,225円
●津高探訪⑩「希望の像」その2で紹介した台座の文字
揮毫は南谷直彦(第16代学校長)先生によるものである
9月14日(水)学校では前期新人大会、国体に向けた壮行式が行われた。壮行式の際、ステージには応援団の団旗が掲げられる。そこに南谷先生の書かれた「心 汗 知」の文字がある。「心 汗 知」の三文字について、先生は『北斗』第35号「巻頭言」、『津幡高校柔道部~四半世紀の歩み~』でこう述べている。
応援団の団旗にも掲げてありますが、機会あるごとに生徒の皆さんに、あるいは職員会議で、本校の具体的な教育目標を表した心汗知の三文字を取り上げてきましたが、あらためてふれてみたいと思います。
【心】
先般、3年生の就職に際し、企業の方が来校した折、「津幡高校の生徒さんは非常に礼儀正しいですね、廊下で会ったら、きちんと挨拶してくれました」と言われたので、私は「そんなこと、あたりまえでしょう」と言いますと「いや、あたりまえじゃないんです。私たちがこうして回っていても挨拶などしてもらえません。しないのがあたりまえで、してもらえるのが珍しいんです・・」
本校の重点目標の一つに「部活動の振興」があります。学校の活性化とスポーツ人の究極目標である心技体の錬成を目指すことは勿論ですが、特に礼儀作法の重視により相手を敬い、進路先での円滑な人間関係まで拡大できる資質を養うことをそれぞれ心がけてほしいことから、心をつくる出発点を〈部活動の挨拶〉にもってきたのです。
【汗】
「額に汗して働く」は労働の尊さを説く言葉ですが、この汗はそればかりではありません。「若き高校生たちよ、行動を起こせ!」と言うことです。スポーツや文化活動、あるいはボランティア活動、そして高校生の本務である学習活動にも励んでもらいたい。高校三年間でしかできないことに集中せよ。その真剣に取り組んだことが将来の糧となり、必ず生きてくるものなのです。
【知】
卒業後すぐに就職する人も上級学校への進学を目指している人も、最終的には仕事をもって生活しなければなりません。職場で、あるいは地域社会で、問題視されない程度の知識教養は是非身につけてもらいたい。願わくば「文武両道」の実践者が一人でも多くこの津幡高校から出て世に評価されれば、後輩たちの励みとなるでしょう。
壮行式には必ず団旗が掲げられる。そこにある「心 汗 知」の三文字には津幡高校卒業生としてこれからの人生歩んでいく生徒への思いが込められている。
本校には「希望の像」のほか、「団結の像」と「伸びゆく若者像」がある。
「団結の像」は正門を入って左側、視聴覚室脇の庭の中にある。設置された日時は不明だが、
『津幡高校50年史』内参考資料の「校舎見取り図」には、既にその存在があるので、昭和48年以前に設置された像である。制作者は倉井外之氏で、本校卒業生でもある。平成6年から10年まで本校で美術教師を務めた。
●「団結の像」
もう一体は「伸びゆく若者像」である。先に紹介した初代「希望の像」が今置かれている同窓会館玄関に、対面で置かれている像である。台座には「陽光」とだけあり、それ以上のことは分からなかったが、『石川県立河北台商業高等学校 沿革誌』(河北台商業高校閉校記念誌)の中にその存在を知ることができた。河北台商業高校玄関を入ったあたりのスペースに設置されていた。制作者は不明だが、記念誌には写真の下に「伸びゆく若者像」とある。閉校時、河北台商業高校の33年間の資料と共に本校にやってきた。資料は特別棟3階の教室(「河商メモリアル」)に保管してある。河北台商業高校は、本校商業科の廃止と共に独立し、本校の総合学科設置(商業系列)に伴い、合併することとなった。
●伸びゆく若者像「陽光」
平成15年3月31日閉校となった「石川県立河北台商業高校」について、触れておきたい。
沿革誌『わが河北台』(沿革史より)
昭和45年1月 1日 石川県立津幡高等学校内に石川県立河北台商業高等学校創立
村 立造(県立津幡高等学校長)校長兼務
1月14日 設置学科を全日制商業科と決定
4月 1日 石川県立津幡高等学校内に仮校舎で開校
昭和46年1月30日 設置学科を商業科、情報処理科と決定
昭和47年4月 1日 津幡高等学校内の仮校舎から新校舎(河北郡宇ノ気町大崎)に移転
(中略)
平成 3年7月 6日 伸びゆく若者像「陽光」設置
(中略)
平成15年3月31日 閉校
(ごあいさつ) 16代校長 釜谷直隆
本校は平成15年3月をもって閉校となり、ここに過去33年の歴史を閉じますが、この間の記録を保存し、河北台商業高校に学んだ卒業生や関わりのあった人たちの心に永遠に残るようにと、沿革誌を発刊する運びとなり、感無量です。(中略)さて、これまでの記念誌に目を通しますと、その時々の特色が分かり、又時代の流れを痛感せざるを得ません。
昭和45年に高度に発達した社会の要請と期待を背負って新設された草創期の時代から、昭和47年から生徒数が800名を超え、次第に活気に溢れ、施設設備は勿論のこと教育内容の充実や部活動など飛躍的に発展していく時代、特に部活動ではサッカー部が昭和51年度に全国高校サッカー選手権に出場し、石川県勢として初めて1回戦突破、その他ボート部、ソフトテニス部、卓球部がインターハイ出場とめざましい活躍を遂げた時代・・・そして少子高齢化時代を迎えて時代の趨勢で仕方がないのかもしれませんが、平成4年頃から生徒数の減少していく時代、平成8年には情報処理科を情報流通科として改編し、情報機器を中心とした施設設備・内容の充実を図っている中、高等学校再編整備案に基づき、平成13年度より募集停止、そして閉校と変遷を経てきました。(中略)
最後のこの沿革誌が河北台商業高等学校の33年の歴史と伝統、そして良き思い出としていつまでも皆様の心に生き続けることを願い、また皆様のご尽力のおかげで発刊できましたことに感謝申し上げ、挨拶と致します。
●石川県立河北台商業高等学校(かほく市大崎)
河北台商業高校は平成27年(2015年)校舎が解体され、今はその姿はない。
●北斗七星を指さす2代目「希望の像」 ※生徒玄関に向かって右側
現在の「希望の像」は2代目である。この2代目誕生の裏には悲しい出来事があった。石像台座裏にこう記されている。
この像は、昭和四十六年三月卒業の津幡高校全日制第二十三回生及び定時制第二十回生の卒業記念品として寄贈され、
日展作家の石田康夫氏の制作により、同年八月建てられた。二十数年間風雪に耐えた後、全国高校総体出場中急逝した
岡田隼人君の保護者義久氏の寄贈により、平成八年三月再建された。
題字の揮毫 第十六代校長 南谷 直彦
○記文 ○「希望の像」揮毫
悲劇は平成7年8月6日、鳥取県米子市で開催されていた高校総体・漕艇競技の準々決勝後に起こった。レース後「動悸がするんや」と訴えた隼人君に懸命の救護がなされたが、その後、帰らぬ人なった。死因は詳細不明であった。
新聞の見出しには、「高校総体漕艇の津幡高生急死」とあり、記事には
(岡田君の通夜は七日夜、津幡町加賀爪の弘願寺で営まれ、岡田君の両親、津幡高関係者ら参列した約四百人が若すぎる 死を悼んだ。高校総体で不在の南谷直彦校長に代わって越野兵司教頭、橋本監督とボート部員、36Hの同級生らが通夜に駆けつけ、祭壇の岡田君の遺影に手を合わせ焼香した。
津幡高校PTA会長も務める父親の義久さんは、三人きょうだいの末っ子である岡田君の初の全国大会出場を喜び、会場で応援していた。義久さんは「最後まで隼人のそばにいて死に水を取ってやることができた。隼人は十七年間、精いっぱい生きたと思う」と目頭を押さえた。)とあり、津幡での悲しみの通夜の様子が伝えられた。
高校総体で不在の校長と同じく参列できなかったのが、岡田君の在籍する36Hの担任、山本智秀先生(現津幡高校長)だった。山本校長はこの時を回想して
(平成7年8月6日、学校から携帯電話に岡田君急逝の知らせが入った。私は島根県浜田市でのインターハイ柔道競技期間中で身動きがとれなく、通夜、葬儀への参列も叶わず、最後の別れを告げることができなかった。私は遠く離れた島根の地から、石川の方向に向け、一人ひたすら手を合わすことしかできなかった。
その後、淡々と時は流れ、それぞれの進路も決まっていったが、一人欠けた36ホームでは物足りない空気が漂っていた。岡田君のために何かできないかクラス全員で話し合い、卒業アルバムに岡田君も載せてもらえるよう当時の校長に嘆願した。卒業式前日には、クラス全員で墓参りに行き、36人全員がそろった卒業アルバムを手に思い出を語った。
今でも「希望の像」を見るたびに岡田君の笑顔や当時の活気溢れるクラスを思い出す。)
今日も2代目「希望の像」は生徒の登下校を見守っている。
現在、生徒玄関に向かって右側に建つ2代目「希望の像」、津高生徒を見続ける「希望の像」ついて、創建から振り返る。『津幡高校50年史』には、
「昭和45年度、図書館建設委員会を発足させるとともに、46年6月に関係各方面に趣意書を提出する一方、県の予算獲得については、矢田富雄氏の並々ならぬご尽力により追加予算が決定し、46年1月に着工、47年7月、生徒会館(旧同窓会館)横に鉄筋二階建の視聴覚教室(定員80名)兼図書館(定員約108名)が完成した。
これに併せて図書館周辺の整備も行われ、村立造前校長より校歌碑を、昭和46年度卒業生より「希望の像」(制作者 石田康夫 金沢美術工芸大 講師)の寄贈があり、これらの竣工記念式が昭和46年8月に挙行された。」とある。
●村立造(津幡高校第7代校長)氏より寄贈された校歌碑
※現在、「姫小松」と共に生徒玄関に向かって左側に建つ、「校歌碑」は創建時からこの場所にある
●初代「希望の像」創建時 ※「姫小松」と共に生徒の登下校を見守る
この初代「希望の像」にはエピソードがある。『津高新聞』(平成5年7月16日)では、
津幡高校創立70年周年に向けて行われた企画をこう紹介している。
「記念式典に先がけて70周年記念事業として、玄関前庭の改修工事が行われた。駐車場のスペースを確保するため、前庭を半分にした。また玄関前の池も取り除かれ、出入りの便が図られるようになった。この結果、大型バスが玄関まで直接乗り入れることができるようになった。。この工事に伴い、池の縁にあった「希望の像」は前庭部分に移動した。これによって「希望の像」左手は北斗七星を指すことになった。
●前庭移転で北斗七星を指さす初代「希望の像」
現在、初代現在、初代「希望の像」は同窓会館入口玄関(購買の方からは一番奥の所)にいる。
●( )を指さす初代「希望の像」 ※( )内は想像にお任せします
(追記)
『津高新聞』(平成5年7月16日)には、70周年記念事業で建設された現在の同窓会館、今も生徒がお世話になる購買について、当時の「購買のおばちゃん」についてのコラムがある。
(「購買のおばちゃん」「おねえさんでしょ」で有名な購買歴ン年のAさん〈××才〉〈決して年は教えてくれない〉は、まさしく本校購買の顔である。Aさんの一日は、朝のパン注文受付から始まる。これがまた、結構忙しい仕事である。注文受付が終わるとパン屋さんに注文をする。その日の行事により、パンが何個売れるかを予想し、注文するのである。〈予想が外れると職員に余ったパンを出張販売に来る。しかし、決してまけてくれない。〉
〈中略〉
毒舌ではあるが、その話し方にはとても暖かさを感じる。中には「おばちゃん」といって、用もないのに遊びに来るファンもいる。そのAさんに購買での苦労は何ですかと聞いたところ、「生徒の態度が悪いこと。」と一言で片付けられてしまった。
卒業しても忘れられない購買のAさん、本校の隠れた顔である。
「
津幡高校は部活動が盛んで、令和3年度には男女柔道部、女子バスケットボール部、なぎなた部、ウエイトリフティング部、ボート部、射撃部が全国大会に出場している。それでは、津幡農蚕学校・農学校の初期における部活動を現在と並べてみる。
●柔道部・剣道部
今(令和4年)
昔 津幡農蚕学校 1929年(昭和4年)卒業アルバムより
柔剣道部について、『津幡高等学校50年史』には、
武道大会は、毎年1月2日に行われている。この部の活動は、正科である体育の武道と密接な関係に有り、大正14年に着任された国下太作教師のもと、毎年寒稽古の後に紅白勝負をして、その覇を争っている。大会は校内だけでなく、昭和4年より津幡警察職員との交歓試合、昭和6年より部主催の郡児童剣道大会も開かれている。昭和16年11月10日、県中学校柔剣道大会では、剣道4位、柔道5位という戦歴を記している。
その他、初期の部としては、野球部が昭和3年に誕生し、活躍しているのが目につく。
●野球部
今(令和4年) 昔 中平先生を囲んで(昭和4年)
●射撃部
今(令和元年)
昔 津幡農学校1938年(昭和13年)卒業アルバムより
写真には「思いで深き白尾の浜で」 「目標前方の敵三百・・・」とある
射撃は、戦時下の国策でもあり、特に厳しい訓練が行われ、教練・露営訓練・野外演習と共に、優秀な成績をおさめている。特に本校は、昭和2年(1927)、校地内に射撃場を作り、昭和4年の実弾射撃大会(七聯隊 上野射撃場)では、平均29点、6位(15校参加)の実績を持っている。
他にも初期の部活動として、陸上競技部、庭球部、相撲部、応援団があった。昭和6年以降、部活動はますます盛んになり、かなりまとまった部ができている。
体育関係では、陸上、相撲、水泳、拳闘、籠球、排球、庭球があった。
スポーツ健康科学科3年生 マリン実習Ⅱ ※令和4年6月22日 滋賀県大津にて
河北農蚕学校、津幡農蚕学校、津幡農学校では「校友会」(現在の生徒会)が活発に活動し、さまざまな行事が行われた。(「津幡高校50年史」より)
(学校行事)
●水泳大会(現在のマリン実習)
毎年7月21日から外日角海岸で行われた。大正13年(1924)には、観海流、水泳免許を持つ内藤見一氏の指導で、日本古来の抜き手泳法で、10日間。大正15年には、藤井鶴太教師の下で一週間、以後、昭和14年まで続いた。
勿論、最終日には。10町、25町、三里半といった遠泳試験があり、不合格になっても、舟に乗られるのが楽しみの一つであった。
●修学旅行
●運動会、競技会(現在の体育祭、陸上競技大会)
大正14年(1925)9月13日、津幡第二社会体育場で、第1回の運動会が実施されている。リレー、バスケットボール投、走幅跳、走高跳、などが行われた。一方運動会は、年々近代化、戦時化され、昭和10年(1935)頃より、仮装行列、弾薬運搬、資源獲得、長期建設という、軍事色豊かな種目へ変更している。
学生たちがかぶっている帽子を拡大する
(校章と白線三条)について
果てしない宇宙の中から万里の波濤を航海する航海士が、理想の星としている北斗星に三本の白線を配し、帽章のASはAgricultural and Sericultural の頭文字をもって農蚕学校を標したものである。蛇腹の白線三条は、学校の所在地、河北の地名にちなんで川を象徴すると共に、地にあっては農耕に不可欠の水利を表すもので、白線三条の
一条はもって質実 一条は剛健 一条は至誠
これらが一体化され、川の流れが四時絶することなく、理想の海へと注ぐに至る不屈不撓の精神を力強く示すものであり、天にあっては微動もしない理想の星、北斗は河北の北を象徴すると共に、地域農村の開拓指導の先駆者を育成しようとする意図を示した。
「姫小松」は平成5年、70周年記念事業による改修工事で今の場所に移植された。
●「姫小松」(生徒玄関グラウンド側)
「姫小松」について、『津幡高等学校五十年史』第三部第三節「西教場焼失」には、
「元高等女学校の校舎の焼失にともなって女学校卒業生の悲しみは人知れず、そのことにより母校への愛着がうす れていくことがあってはと、当時の職員の努力によって何らかの形でそのおもかげを後世へ残そうとする努力が続けられた。校門前の希望の像近くに現在も植えられている松の木は、元津幡高女の校歌に歌い込まれている姫小松であり(女学校通用門右側にあったもの)、当時のなごりを偲ぶことができる。」
(津幡高等女学校校歌)三番の歌詞
嵐をしのぎ雪にたへ
ときわの色の鮮やかに
のびてやまざる 姫小松
ああその如くすこやかに
御代の光のあきらけさ
学びの園においたたん
●「姫小松」 ※女学校跡地からこの場所に移植された。
●昭和62年(1987)玄関改修工事後
ところが、この「姫小松」に異議を唱えたのが杉本さん(女学校18回卒、同窓会副会長)だった。『同窓会報』(第2号)に「姫小松異変!?」として
「ここに思いもかけなかったハプニングが起こりました。焼けた旧女学校校舎から、現高校正面に移植されていたはずの姫小松、女学校の思い出を残す者たちにとって唯一無二の姫小松が、何時、何処でどうすれ違ったものか、黒松に変わっていたのです。
(その後調査したものの)
「結論として現地で見ていた者の方が・・・・。と云うことになりました。」
とあり、「・・・・」の箇所は不明であるものの、その後にこう続く。
「しかし失くなってしまったものは致し方ないことです。間違えられたとしても、現に黒松一本、貝塚息吹。いすのき50本あまりも垣としてのこっております。」
現在の「姫小松」も、かっては女学校にあったものであり、当時の女学校生徒を見守っていた。津幡高校「姫小松」も女学校に続き、津幡高校生徒を見守っている。
昭和23年(1948)4月、女学校は農学校と併合し津幡高等学校が誕生する。津幡女学校の21年間、いくつかの行事を振り返ってみる。(50年史、同窓会館展示のアルバムより)
●運動会
昭和5年10月23日第1回の運動会が開かれた。
●修学旅行
昭和5年10月7日、四年生は寺西・北川教諭引率のもと、5日間の第1回修学旅行に出発した。行く先は関西方面であった。昭和6年第2回修学旅行は関東地方に向かった。以後隔年ごとに昭和16年度まで実施されている。しかし、戦雲急を告げ始めた18年からは、旅行どころではなく、その後、再開は戦後の21年まで待たなければならなかった。
○第1回修学旅行(関西)
○第2回修学旅行(関東)
●水泳・スキー実習、白山登山
学校の組織として、鍛錬部が設けられ武道、遠足登山、水泳、競技、スキー、排球、卓球が盛り込まれ、その一つには
白山登山があった
○スキー実習
○水泳実習
○白山登山
●白衣縫製
県では、県下女学校生徒に傷病者の白衣をぬわせ、縫製費を軍病院献納金とすることになり、学校では休暇中に全校生徒一斉に、その作業に当たった。できあがり品について、検査がきびしく、わずかの僅差もゆるされない状態で、生徒一同は真剣な眼差しで縫製にあたった。
●創立10周年記念式
昭和12年(1937)10月20日、創立10周年記念式典が挙行された。午前10時より、県知事その他来賓父兄多数を招待しての盛大なる式典であった。
(式次第)
1 敬礼 2 君が代 3 勅語奉読 4 学校長式辞 5 長官告示
6 来賓祝辞 7 卒業生総代祝辞 8 生徒総代祝辞 9 勤続職員表彰
10 校歌 11 敬礼
●ブラスバンド誕生
昭和16年(1941)2月1日に設置された鼓笛隊に、同年4月24日在校生徒および父兄有志寄贈によるブラスバンド楽器一揃がとどき、各種大会に活躍する。
「津女気質」とは
津女生の大多数が河北郡出身者で占められており、家庭の職業は農家が圧倒的に多かった。その関係からか、のびのびと明るく、素直で労をいとわぬ勤労の精神が育っていった。生徒の気風は純朴で作業を好み、勤労を愛し、協力し合い、競って自己の本分をつくす傾向があるといわれた。
●津幡町津幡にある「実生こども園」前左脇に建てられた石碑
昭和61年10月30日、津幡町津幡に赤御影石に中山先生の揮毫による「石川縣立津幡高等女学校蹟」の文字と校章が入った石碑が建立され、除幕式が行われた。除幕式に参加した女学校卒業生は
〈同窓会副会長杉本さんが、「旧女学校の跡地に我々が此処で学んだと云う証明になるもの、石柱一本なりと建て
てほしい」と云われた切なる願いは、私達女学校に学んだ者を代表する発言であり、皆の切実なる願いでもあった
のです。(中略〉除幕式当日は雨が降り肌寒い日でしたが祈りが通じて時折晴れ間もありました。式典の挙行され
る午後二時近くなると喜びを隠しきれぬ顔、顔、顔、遠方からの顔も混じり跡地には百名あまりの予想を越えた同
窓会員の大集合になりました。〉
昭和2年4月、県より河北郡町村学校組合の経営による高等女学校の設置許可が下り、組合立津幡高等女学校が開校した。仮校舎で42名の第1回入学式が行われた。2年後の昭和4年9月、新校舎が完成し、落成式が行われた。
さまざまな困難を経て、昭和7年4月県立に移管し「石川県立津幡高等女学校」と改称された。日中戦争が始まり、日本が軍事色を強めていく中、津幡女学校も昭和13年、勤労報国隊が結成された。生徒は勤労奉仕に動員され、安閑と勉強をしている雰囲気ではなかった。
そして、昭和19年、学徒動員により上級生は軍需工場へ、下級生は食糧増産の勤労作業に出かけることになる。その中で昭和20年8月、終戦を迎えた。
●竣工当時の校舎
●津幡農学校の正面玄関に掲げられていた扁額
『津幡高等学校五十年史』には「大正13年(1924)四月、当時の長谷川知事は「雨読晴耕」の四文字の揮毫を三浦校長(農蚕学校初代校長)に授けられ、それより本校の校訓として」とある。また『同窓会報』や『同窓会誌』にも当時の思い出として紹介される四文字である。
一つの疑問として、なぜ、本来の「晴耕雨読」ではなく「雨読晴耕」なのか。『五十年史』には
「校訓にも示されている通り雨読晴耕ということであって、雨の日は専ら読書に耽り、勉強第一主義で、晴れた日は外へ出て農耕に励み、学理と実際を一体化する知行合一の教育を重んじた。」とあり、農蚕学校、農学校でも、学生は学びが第一であることを訓じたものと推察される。現在、この四文字は、農学校卒業アルバムの1ページに見ることができるが、
もう一つの疑問として、農学校に掲げられていた扁額はどうなったのか。今も存在するのか。不明である。
『五十年史』には「津農気質」という一節があり、そこには「津農魂」について、
「県下の屈指の農業校として輝かしい伝統の中から、津農生の気風にも、どことなく誇り高いものがあった。開校当時の入学生には、地主の子息がいたが、百姓には学問が不要であり、ぜい沢であるとの農村の一般的考え方から、生徒数は少なかった。教師一人に生徒七人という割合で、実に家族的精神がみなぎっていた。正に校訓の示すがごとく雨読晴耕であった。」
また、「鍬を肩に、土に恋慕し、共に鋤ををもち、肥をかつぎ、土を相手に生きたが故に、本校生の特質として、〈泥くささ〉は天下に響いていた。純朴でおっとり型で誰からも好かれるタイプ、裏面にはしんが強く、困苦欠乏に耐え、大地に足のついたねばりをもつ津農魂ともいうべきものが見られる。」とある。
そして、この一節の中には、「きれいな校舎」として、
「本校の特色の一つは、農場は勿論、校舎の隅々まできれいに清められていて、公共物が大切に取り扱われ、整理 整頓がよく行きとどいていた」とあり、県知事が学校に訪れた際のエピソードが紹介されている。知事は帰られる時、舎前に整列している生徒に
「こんな綺麗に掃除された学校、机に傷一つない学校はない。県下の範として足る」といわれ、車に乗られたということである。
●陸橋側から見た現在の門柱(平成6年6月記念碑建立 写真左)
かっての津幡農蚕学校が建てられた場所、手前にある2本の古い石の門柱が「石川県立津幡農学校」の正門跡である。(平成6年6月記念碑建立)
昭和4年の世界恐慌のため、養蚕業は大きな打撃を受ける。それまで大きな販路となっていたアメリカに対する生糸の輸出が不振におちいったため、蚕の値段が急激に下落した。その結果、養蚕では各農家の経営が困難となり、卒業生の就職も難しくなった。この流れの中、「津幡農学校と改称しては」という地元民からの要望が高まっていった。
卒業生が海外に進出したり、就職を志す場合、どうしても名前にとらわれ、農蚕学校では蚕科を主とするような学校のように考えられ、農学校出身者の方が優先的に採用される傾向もあった。学校側は養蚕学校創設以来尽力した方たちの了解を求めて、昭和11年3月、校名を「石川県立津幡農学校」と改称した。
●旧校舎(津幡農学校→津幡高校)写真(1966年〈昭和41年〉津幡高校第18回卒業アルバムより)
大正13年、河北郡に農学校という地域社会の熱烈な要望の中で、河北郡町村組合立河北農蚕学校の設立が認可され、開校の運びとなった。「熱烈な要望」について『津幡高等学校五十年史』には、
「中学校が金沢に集中していることをあげ、郡部に設立して、男子の教育をするよう強く県に要望した」
「農業校設置状況は、全国で最下位で、農業県石川の名に恥ずかしいと北國新聞は、農業校設立の必要を力説した」
「世論を受け、山県県知事は、能登に農業、加賀に工業の構想を明らかにした」とある。
河北郡自治公会堂を仮校舎とし、実習地を津幡町加賀爪にすることとなった。大正13年4月、55名の新入生で入学式が行われた。その後、大正15年3月、県立に移管することとなり、校名を石川県立津幡農蚕学校と改称することになり、加賀爪に新校舎が建設された。さらに昭和12年ころまで実習施設の新築、増築が相次いで行われ、あわせて実習農地も増加し、生徒一人あたりの農地は全国一の大きさを誇った。
●(陸橋側から撮影された石川県立津幡農蚕学校 ※昭和4年〈1929〉津幡農蚕学校第3回卒業アルバムより)
校舎建設にあたり、『津幡高等学校五十年史』には、
「鍬をかついで、毎日、仮校舎から実習地まで通いながら一日も早く校舎のできあがるのを待ち焦がれていた。5月 初めから校舎建設予定地である加賀爪ヲ45番地付近へ、これまで見たこともない大きな外材や赤い瓦が到着した。毎日実習に行くたびに、校舎のできあがる状態を眺め、「おい、できるぞ、できるぞ。」とはしゃぎ回り、材木の上や瓦の上にあがって、大工や先生方に叱られたということである。」
また、9月来賓を多数迎えての落成式では、
「床には油が塗ってあり、ペンキの香りと木の香りが交錯する。祝賀のしるしに学校からもらった小さな紅白のまんじゅうを、二つ一度に口の中に入れて抱き合って喜んだ。正面玄関、三角屋根の赤瓦が、生徒の忘れがたい青春のシンボルであった。」
とあり、当時の生徒たちの喜びがうかがえる。
100周年記念事業の一つとして「津幡高校100年誌」を発刊します。
192ページに津幡100年の歴史をまとめていきます。
現在、編纂作業がスタートしてから1年が経過しようとしています。
このブログでは、100年誌に掲載予定の内容について、ダイジェストで紹介します。
また、編纂の過程で、発見したこと、不明なことなども掲載していきますので、
ご意見などがございましたら、記念誌編纂作成委員会まで連絡ください。
●100年誌 イメージ