2025年10月の記事一覧
未来の図書館
地震から 650 日目
豪雨から 386 日目
3年生の普通コース理系の生徒を対象に
国語科の松本昭子先生による
「論理国語」と外国語科及び理科との
教科横断的な授業を実施しました
テーマは
「まちづくりの拠点として
輪島に公立図書館を作るとしたら
どのような図書館が良いか」
です
これまでに
「人とともにある図書館の未来は明るい」や
「図書館と『ものがたり』」を学び
前回の授業で
発表用のスライドを作成し
さらに新聞記事を活用しながら
多様な角度から図書館に関する話題に
触れてきました
本時は
スライドを用いて
グループ内で発表を行いました
そして次の時間は
グループ代表を決めて
代表全体発表を行う予定です
生徒たちは
「説得力とは何か」
という問いを意識しながら
質問やコメントを通して
互いの意見を深め合っていました
以下に生徒の発表内容と
聞き手のコメント質問の一部を示します
生徒Aは
これからの図書館のあり方について
発表しました
図書館が必要である理由として
「憩いの場があれば
住みやすくなるのではないか」
と述べ
これからの図書館として
「全ての人に
知識や情報へのアクセスを
提供することが大切であり
飲食スペースや
話し合いに使える会議室も必要」
と提案しました
聞き手であった生徒Bは
「輪島にある図書館の課題が
書かれていてよかった」
とコメントしました
生徒Cは
誰もが利用しやすく
魅力的な図書館作りについて
発表を行いました
「キッズスペースや
飲食可能なスペースを
設けるとよい」
「日本語の本だけでなく
他国の本を置くことで
外国や言語への関心を高められる」
「誰もが気軽に立ち寄れる
場所にしたい」
と提案しました
聞き手であった生徒Dは
「図書館の大きさは
どれくらいを想定しているのか」
「フリースペースを設けたほうが
よいのでは」
とコメントしました
生徒Eは
幅広い年代が利用できる図書館のあり方
特に中高生も利用しやすい
図書館づくりについて発表しました
データを活用し
高齢者が利用が多い割に
中高生の利用が少ないことを指摘し
その要因として
「高齢者は余暇がある」
「中高生はスマホを使う」
などを挙げました
その上で
「中高生も通用しやすい環境にするには
本を借りるだけでなく
雑談や飲食
参考書利用
カフェなどの機能を併設するとよい」
と提案しました
構造としては
「1階に児童コーナーやカフェ
2階に自習スペースを設けた二階建て」
を構想しました
生徒Fは
理想の図書館の具体例として
武雄市図書館を紹介しました
図書館とTSUTAYA書店が併設され
気に入った本を
その場で購入できる点や
親子で楽しめる絵本コーナー
スターバックスが併設されている点など挙げ
寄り道がてら立ち寄りやすい図書館
として紹介しました
また輪島で建設する場合を想定し
敷地面積や延床面積
建設費や運営費についても
具体的に提示しました
そのほか
教科書から文章を引用して
考えを補強する生徒
データを元に考察を行う生徒
輪島の現状を踏まえて
図書館は必要ないと主張する生徒
聞き手を引きつける「つかみ」について
工夫する生徒
図書館の存在意義を考えながら
高齢者や子供など
多様な立場から
図書館のあり方を考える生徒などなど
それぞれが主体的に
意見を表現していました
全体発表が終わると
生徒たちは自らの
発表原稿やスライドを見直し
より説得力のある
プレゼンをするための方法について
意欲的に意見交換していました
今日のレポートは
新採の櫻庭先生が
まとめてくださいました
めんそ〜れ沖縄最終日
地震から 649 日目
豪雨から 385 日目
楽しかった修学旅行も最後の日
食事の後は
ホテルの方が片付けやすいようにと
自分たちで食器をまとめるグループ
ご家庭でのしつけでしょうか
それとも避難生活で身についた
助け合いの心でしょうか
いずれにしても
美しい日本の心を見ました
最後の見学地
首里城に行きました
昨年来たときよりも
はるかに復興が進んでいます
輪島塗の職人さんも
復興作業に関わっています
今年の夏には
本校和太鼓部が
演奏させていただきました
そんなゆかりのある場所です
復興をお祈りしております
最後にガイドさんから
教えていただいた
素敵なことば
「誠(まくと)そ〜ち〜ね〜
なんくるないさ〜」
(誠実に一生懸命生きていれば
必ず道は開かれる)
いろんな思いを抱き沖縄を後に
ただいま
送り出してくださったご
ご家族のみなさま
おかげさまで
たくさんのことを学んで
つらい環境の中でも
明るく強く
未来を夢見て生き抜く力を
さらに強くして帰ってきました
ありがとうございました
めんそ〜れ沖縄3日目
地震から 648 日目
豪雨から 384 日目
日本のほぼ最西端
沖縄の夜明けは遅いです
6時でもこんなに真っ暗
少しずつ東の空に陽がさしてきました
陸上部はビーチでトレーニングです
私は昨日3つのオンライン会議があり
夕食も一緒に摂ることが
できなかったのですが
夕食後カラオケ大会で
盛り上がったそうです
実はこのカラオケ大会
行程にあったものではなく
生徒が直接ホテルに掛け合って
追加料金なしで
急きょ実現したものです
誰ひとり帰らず
終了時刻もきちんと守って
自分たちの力で
自分たちの旅行を盛り上げています
自分たちの力で
世界は変えられます
こちらは守り神シーサー
阿吽の「あ」
つまり口を開けているのがメス
「うん」
口を閉じている方がオスだそうです
今日のプログラムは
2組に分かれ
ジャングリアコースと
マリンスポーツコース
ジャングリアコースは
路線バスを乗り継いで向かうため
ひと足先に出発
マリンスポーツコースは
それに遅れること30分
貸切バスで走っていると
あれ?
先発したはずの
ジャングリアコースの生徒が
まだ停留所に!?
どうやら路線バスが遅れているよう
大ピ〜ンチ!
急きょ貸切バスを停めて
送迎することにします
バスの中では
ガイドさんが三線で
「てぃんさぐぬ花」
を歌ってくださいました
『てぃんさぐ』は
ホウセンカのこと
「ホウセンカで指先を染めるように
人としての教えを
伝えていきましょう」
そんな曲です
ジャングリア組を無事送り届けました
マリンスポーツ組は
午前中は「美ら海水族館」です
ここは4階から1階に降りていくにつれ
浅い海から深海へと
海の中を潜っていくように
展示されています
一番浅い海をイメージした水槽では
人工で水面を波立たせています
それは観客が上を眺めた時
水槽のバックヤードや飼育員を
見えないようにするためです
水分子は赤い光を吸収する性質があります
ですので浅い海の中は赤以外の光
つまり透き通った青色に見えます
さらに潜ると黄色い光も吸収され
透明な青から深い藍へ
やがて真っ暗な世界へと
深海で暮らす魚たちに
光のストレスを与えないよう
住む環境に合わせてあげます
しかしそれだと
今度は人が魚を観察することが
できません
そこで赤い光で照らしてあげるのです
なぜなら赤い光は
水に吸収されてしまい
深海までは届かないため
深海魚の目はそれを感じないように
進化してきたからです
身の回りにある科学でした
お昼はソーキそば
パワーをつけたあとは
午後はマリンスポーツ
ジャングリア組は
ヒューマンアロウ(人間矢)
田中選手が挑戦です
飛べ〜!
こちらは恐竜と気球をバックに
ナルトダンスを踊る新谷選手
そして夕飯後は「うたバス」
ガイドさんたちが歌と踊りで
楽しませてくださいました
本校の吹奏楽部のパーカッショニスト
髙橋惺(さとい)さんが
沖縄の民族楽器「三板(さんば)」を
飛び入りで奏でてくれました
抜群のリズム感です!
11月1日の「街プロ」発表会の
案内ができました
ぜひお越しください
めんそ〜れ沖縄2日目
地震から 647 日目
豪雨から 383 日目
いい天気
2日目の朝です
バイキングの朝食でスタートです
こちらは朝からモリモリ漫画ごはん
バイキングっていうのは
北欧の海賊の食事スタイルかと
思ったらさにあらず
日本以外の人には
伝わらない言葉です
昭和32年
新しいレストランを模索していた
帝国ホテルの社長が
デンマーク・コペンハーゲンを訪れた際
好みのものを自由に食べる
スカンジナビアの伝統料理
“スモーガスボード” に出会い
それに着想を得た
日本初のビュッフェレストラン
をつくりました
当時流行っていた
映画のタイトルから
「バイキング」と名付けたそうです
キャッチーなネーミングって
重要ですね
出発!
男性は「ハイサーイ」
女性は「はいたーい」
男性と女性で使う言葉が違うんですね
「ありがとう」を
男性は「コップンクラップ」
女性は「コップンカー」
というタイ語に似ていますね
もしかして
太平洋西南にある位置する国に
共通してみられる
言語の特徴なのかもしれません
今度研究してみることにします
ガイドさんが
対馬丸の話をしてくださいました
対馬丸は沖縄から本土への疎開船
当時の子どもたちは
修学旅行にでも行く感覚で
親元を離れて
楽しそうに船に乗り込んだそうです
それが永遠の別れになるとも知らずに
本土に到着する直前に
アメリカの潜水艦からの魚雷を受け
多くの幼い命が失われたのです
生徒たちはその話を
のめり込んで聴いていました
なぜならこの子たちは
令和の時代に
疎開を実際に経験しているからです
高校受験を間近に控えた
大切な時期に家を失い
集団で親元を離れて
暮らす経験をしたこの子らにとって
決して人ごとではないのです
自分の体験そのままなのです
「戦争は人を人でなくする」
「戦争はこの世で最も醜いもの」
こんな話に涙しながら
あの時焼け野原だった場所を
バスは走ります
「ぬちどぅたから(命こそ宝)」
ひめゆりの塔で祈りをささげました
バスの中では
カリスマガイド「ちばりな」さんが
バスを劇場に仕立てて
歌で踊りで素敵な旅を
演出してくださいます
「右手をご覧ください
一番高いのは
中指でございます」
「掌に人という字を書いて舐めると
人を舐めてかかるということで
人前で緊張しないおまじないがあります
車に酔わない方法をお教えします
掌に車と書いて舐めてください
もっといいのは
直接車を舐めることです
窓ガラスを舐めてください
ありがとうございました
窓がきれいになりました」
などが昭和のガイドさんの定番でしたが
コロナ禍を超えて
令和にアップグレードされています
お昼は瀬長島ウミカジテラスで
透き通るような海を見ながら
バスの中ではガイドさんが占いを
「左手で右手の指を1本
握ってみてください」
親指を握った人は
シャイで引っ込み思案
人差し指を握った人は
せっかち
中指を握った人は
おしゃべり
薬指を握った人は
クールで控えめ
小指を握った人は
甘えん坊
添乗員の丸山さんが握ったのは
人差し指
顔を見合わせて笑いました
午後に訪れたのは
「おきなわワールド」
エイサーを鑑賞したあとは
琉球文化体験
まずはレザークラフト
そしてシーサーの絵付け
「決して覗かないでくださいね」
機織り体験に
琉装着付け体験のお嬢様方
いろんな思い出ができました
でもこれ
よくよく考えてみると
本当に沖縄オリジナルかというと
そうではないんですよね
レザークラフトにしても
機織りにしても
実は日本中どこにでもあるもの
でもそこに琉球の香りをつけることで
一生の思い出に残るような
思い出を織りなしているんですね
輪島の復興への
大切な視点になりそうです
次に訪れたのは普天間基地
東京ドーム400個超のこの広大な敷地
日本であって日本でない
この不思議な場所
先日訪れた
韓国と北朝鮮の国境にも似た
なんとも言えない
不気味さを感じました
学校の方では昨日
富山県立小杉高等学校の
生徒のみなさんと
オンラインで
震災学習及び交流会を実施しました
実際の能登半島地震の写真や説明から
小杉高校の生徒さんたちは
「防災・減災として本当は何が必要なのか
高校生の自分たちには何ができるのか」
自分事として考えたようでした
地域の子どもの支援について
考えている生徒からは
「もっと震災後の子どもの気持ちを考える」
という意見が出てきました
”自分たちがしたいこと”ではなく
”被災者の気持ちに寄り添った支援のあり方”
に気がついたようでした
次回は
輪島高校の生徒たちも加わり
活発な学習会になればと思います
めんそ〜れ沖縄1日目
地震から 646 日目
豪雨から 382 日目
今日から修学旅行
3泊4日沖縄の旅
みんな元気に出発です
高松パーキングで休憩
悪路のため酔ってしまい
もどしてしまう生徒も
この先の道は真っ直ぐだから
きっと大丈夫!
小松空港に着きました
これから沖縄に向かってフライトです
那覇空港に到着
いきなり南国の香りがします
モノレール「ゆいレール」で国際通りへ
国際通りという名前は
戦後「アーニーパイル国際劇場」
という映画館があったことに由来します
終戦後いち早く復興を遂げたこと
通りの長さがほぼ1マイルであることから
別名「奇跡の1マイル」とも呼ばれています
今では名前の通り
国際色豊かな店舗が
軒を連ねています
ウチナーンチュの台所
第一牧志公設市場に行ってみました
こちらは夜光貝
もともと屋久島でとれる貝で
幕府への献上品でもありました
「屋久貝(やくがい)」が訛って
「夜光貝」に
刺身で生食できるそうで
独特の食感と豊かな旨味を楽しめます
身が硬いので
薄くスライスして
内臓(ワタ)を茹でて添えます
バター炒めやアヒージョなど
加熱すると身が柔らかくなり
違った食感を楽しめるのだとか
そのほか南国情緒たっぷりの魚たち
青いのはゲンナーイラブチャー
ナンヨウブダイです
白身魚で味は淡白で独特の香りがするそう
刺身やあんかけでいただきます
赤いのはアカジンミーバイ
スジアラです
表面の皮はゼラチン質で軟らかく
引き締まった身が甘く
高級魚とされています
塩煮が一番美味しいそう
今回も平和学習
「ひめゆりの塔」や「ガマ(防空壕)」
を訪れます
地震からほぼ2年
私自身
これまで前向きに生きてこれたのは
発災の数ヶ月前に引率した
修学旅行の
「ガマ」での経験があったからです
糸数アブチラガマは
沖縄本島南部の
南城市糸数にある
自然洞窟(ガマ)です
もともとは糸数集落の防空壕でしたが
やがて日本軍の倉庫として使用され
戦場が南下するにつれて
陸軍病院の分室となりました
ガマ内は600人以上の負傷兵で
埋め尽くされました
日本軍は兵力不足を補うため
沖縄県民を「根こそぎ動員」しました
中学生や高校生まで戦場に動員しました
「沖縄師範学校女子部」と
「沖縄県立第一高等女学校」からも
生徒・教師240名が
看護要員として動員されました
2校の愛称は「ひめゆり」
戦後彼女たちは
「ひめゆり学徒隊」
と呼ばれるようになりました
2週間くらい辛抱すれば
学校に戻れるだろう
そんな彼女たちの淡い期待は
無惨にも打ち砕かれます
最初は食事や水を運んでいましたが
戦禍が悪化するにつれ
麻酔なしで手術する患者を押さえつけたり
排泄物や切断した手足を外に棄てたり
悲惨な仕事に従事するようになりました
真っ暗で悪臭の立ち込めるガマの中
出口の見えない作業に
追われるのでした
やがて軍から「解散命令」が出されます
「あとは自分の力で生きていけ」
砲火飛び交う野外へと
放り出されるのです
生徒たちは親元に帰ることもできず
爆撃や米兵との遭遇に怯えながら
海岸や壕をさまよい
逃げ惑い死にゆくことしか
できませんでした
こんな状況に比べたら
地震で全てを失ってしまっても
自分たちには未来と希望が見える
そんな思いになれたのでした
11月1日
「街プロ」発表会のチラシができました