2024年1月の記事一覧
被災地が必要とするもの
地震から6日目
まだまだ震度5クラスの余震が襲ってきます
地震の前には不気味な地鳴りも
一睡もできなかった今朝も
トイレの水漏れ騒動から始まりました
懸命に雑巾で拭いていると
一緒に拭いてくださる方が…
見ると昔の教え子や
今の生徒のおかあさん
人の緣を感じます
人の緣といえば
支援の輪もどんどん大きくなってきています
直接持って来られる方や
メールで何が欲しいか聞いてくださる方
その方々には
ブログでおねだりしますと答えたので
震災後に欲しくなるものリストです
第1〜2日目
「水と毛布と懐中電灯、あればモバイルバッテリー」
空腹は感じません とにかく水
あと寒さがこたえました
夜の暗闇は異常に怖いです
配給が届くまでの2日間
最低これがあれば生き延びれる
これらは自分で準備すべきものですね
あとコンタクトの洗浄液がなくて
困っている人に貸してあげたら
ほとんどなくなってしまいました
第3〜4日目
「パンとラジオとゴミ袋、簡易トイレと甘い飲み物」
ようやくお腹が空きはじめます
何かを口に入れるとその結果として…
あと嬉しかったのが
NHKさんがくださったラジオでした
生活によるゴミが溜まり始めるのがこの頃
第5〜6日目
「パンツ靴下おせんべい、水の要らないシャンプー」
着の身着のまま逃げ出して
ずっと同じ服と下着
特に靴下を変えたいです
衣料が欲しくなるこの時期
せめて衣類の消臭剤があれば…
自分の身の回りでは
おせんべいがあっという間に
なくなりました
塩分を欲する頃なのでしょうか
今回うちの避難所に限っていえば
食料が圧倒的に不足しています
以上、あくまで個人的なランキングです
日によって必要なものは変わってきます
今でも瓦礫の下敷きになっている方も
いらっしゃる中贅沢は言えません
夕方から慌ただしい動きが
感染症対策室が設置されました
そういえば感染症が広がるのが
この時期なんですね
マスクも必要になってきます
電気が戻りました
地震から5日目
ついに電気が灯りました
本当は3日に点くはずだったのですが
北陸電力さん
電気保安協会さん
電気商会さん
それぞれの持ち場全てで
不具合があったそうです
順番に直してようやく本日復旧
本当にたくさんの人のおかげで
普通の生活が守られているんだなと
改めて感激です
電気ってこんなに明るかったんだ
まったりしていると
突然生物実験室からガス検知器の音が…
駆けつけてみると
異臭とともに目に飛び込んできたのは
倒壊した棚と散乱した生物標本
保存びんが割れてホルマリンが床一面に
復旧した検知器が一斉に反応したのでしょう
ホルマリンとはホルムアルデヒドの水溶液で
シックハウス症候群の原因となる
発がん性のある危険物質
ホルムアルデヒドは
メチルアルコールから水素が奪われてできます
アルコールから
水素(ヒドロゲン)が出ていくからアルデヒド
(ちょっと違うけど…)
輪高受験生のみんな
読んでるか?共通テストに出るかも
(私は化学の教員です)
ともあれ
これから入って来る避難民を
シックハウス症候群にする訳にはいきません
さっそく除染作業の開始です
水で薄めながら雑巾に吸い取らせます
手につくと手がホルマリン標本になるので
慎重に慎重に
ガラス瓶の破片を除けると
大の苦手のヒキガエル!
突然蘇ったらどうしようと
恐る恐るつまみ出します
次亜塩素酸で消毒して完了
検知器の警報音も鳴り止み一安心
午後3時過ぎから
避難民の受け入れが始まります
避難先は1、2年生教室と格技場
避難生活の疲れからかかなりイライラした方も
受付係はお医者さんと看護師さん
本来業務外に駆り出されているのに
クレーム対応までしなければならないなんて
なんだか教員の働き方みたい
協力してなんとかイライラをおさめます
中には「ご苦労様」と
優しい言葉をかけてくださる方も
なんやかんやで受け入れ完了が午前0時
長い一日だったな
毛布にくるまりこのコラムを書きながら
ウトウト…
「火事です!」突然火災報知器が…
数日前の恐怖が頭をよぎります
慌てて飛び起きて確認すると
火元は格技場
駆けつけてみると
みなさん何事もなかったかのようにスヤスヤ???
それでも報知器が鳴り止みません
消防署に通報して来て見てもらいました
原因は
ジェットヒーターによる格技場の温まりすぎ
外気温との差によって作動する報知器が
どうやら誤作動したようです
どうりで小さいお子さんが
毛布を蹴散らして寝ている訳です
一酸化炭素中毒も心配です
換気もすませて午前3時
キャー
今度は仮設トイレで悲鳴が…
駆けつけてみると
便器の外にでっかい「う◯こ」
ホルマリンの次は「う◯こ」の除染です
除染完了午前4時
少しでも休もうと横になっても眠れません
コラムでも書いていれば
そのうち眠くなるかなと思い
このコラムを書いていると
空が明るくなってきました
おはようございます
避難生活6日目の朝です
避難所開設に向けて
輪島高校を避難所として開設するため
教頭先生と2日から泊まり込みで
準備を進めています
昼間には何人もの先生やOB、OGが
手伝いをしてくれています
いろんな方に助けていただいています
各地の自衛隊の方々が
続々グラウンドに集まって来ます
頼もしい限りです
背景の傾いたビルが
震災の激しさを物語っています
なんでも終戦の翌日には
もう郵便が届いていたそうで
日本って国は本当に素晴らしい
街を歩いてみると
トルコから炊き出しのボランティアが
日本だけじゃなく
世界から支援の手が差し伸べられています
オンラインで生徒の安否を確認していますが
電波事情が悪いようで
3分の1しか回答が得られません
そこで教頭先生に避難所を回ってもらいました
すると前期の生徒会会長が
ほとんどの生徒の安否を把握していて
その実行力と生きる力に感心しました
彼は昨年、本校の100周年記念式典で
生徒代表挨拶を務めた生徒です
あまりに堂々とした挨拶に感動した校長は
「虎の涙」という限定販売の焼酎を
「二十歳になったら呑めよ」と
阪神ファンの彼に送ったのでした
その焼酎、震災で割れていないといいけど
昼になると「先生食べてー」と
生徒が食パンを持って来てくれました
スーパーで配ってくれるものを集めて
いろんな人に
配って歩いているんだそうです
本当は自分たちだって
お腹すいてるんだろうけど
ありがたくいただきました
ほとんど飲まず食わずだったので
心にしみました
ハクにもらったおむすびを頬張る
千尋の気持ちがわかるような
陽が沈むとあたりは真っ暗です
余震が起こるたびに怖くなるけど
その代わり星がとても綺麗です
「星が綺麗ですね」と語りかけたときの
最も悲しくなる返事は「星は綺麗ですね」
最もときめくのは「今なら手が届くかもしれませんよ」
これって何のオマージュかわかりますか?
国語が好きな人ならわかりますね
大好きな国語の授業を受けれる日が
一日でも早く訪れますように
令和6年度 志願者心得
輪島高校への進学を希望している
中学生のみなさん
大変な今だからこそ
未来をしっかりと見据えて
希望を失わずできることから
一歩ずつ着実にやっていきましょう
本日は高校入試の志願者心得を
お届けする日だったのですが
学校にはまだ電気が届いていないので
どうすることもできません
そこでとりあえず写真で見ていただきます
見にくくてごめんなさい
電気が復旧次第正式なもの
および定時制のものをアップしますね
4月にみなさんをお迎えできるよう
全力で準備していきますね
みなさんも負けずに頑張りましょう
奇跡の一軒家
焼け野原となった街を見に行きました
あちこちでまだ煙がくすぶっています
一面燃え尽くされた隅っこに
我が家だけポツンと残っていました
東日本大震災の時の
「奇跡の一本松」を思い出します
新聞等で報道されている写真には
写ることのない本当の端っこです
でも焼け残ったのは
実は奇跡でもなんでもないのです
こんな大火災になった時は
街区の端っこの家に
とにかく水をかけて
なんとかそこで延焼を
食い止めるのだそうです
確かに道を隔てた先には
炎が燃え広がった跡が
見られませんでした
街の全滅から守ってくださった
消防の方々のお力に
心から感謝申し上げます
我が家は
水浸しになりながら
なんとかここで炎を食い止めようと
必死で持ちこたえていました
そう思うと
自分もしっかりしないと
生徒のために何ができるか考えないと
力が湧いてきます
家の中に入ってみました
水をたっぷり吸った床を踏むと
ふにゃふにゃでした
到底住むことはできないので
いずれ取り壊されます
「本当によくやった」
褒めてやりたいです
新婚旅行の思い出の
コアラのぬいぐるみだけ
持ち出して来ました
始業式で話そうと思っていたこと
1月9日に始業式を行うことができるのか
できたとしても全員揃うのは
難しいだろうから
始業式で話そうと思っていたこと
ここに記します
今日はたしか箱根駅伝の復路の日
それどころではない輪島市では
どこの第六走がトップで箱根の山を下るのか
確認しようもありませんが…
箱根駅伝は1920年に始まって
今年で第100回
1923年に創立した本校も
今年創立100周年
あれあれ?
3年のずれが?
そう
箱根駅伝には
途中3回の中止の歴史があるのです
日本が中国に戦争を仕掛けた昭和14年
東京師範学校(現在の筑波大学)の選手のもとに
召集令状いわゆる赤紙が届きます
召集令状とは
戦士として戦場に赴けという命令であり
受け取った方の中には
君たちとそう年の変わらない方も…
多くの若者が特攻隊として
「靖国で逢おう」を合言葉に
敵艦に体当たりして
若い命を散らしました
靖国神社とは
坂本龍馬や西郷隆盛
この国を作るために
命を落とした方々を祀った神社で
戦争で亡くなったら英霊として
その神に招かれると
信じられていたのです
山下りを得意としていた彼は
第六走つまり2日目の第一走を
走ることになっていました
ところが召集令状の命令は
まさにその2日目までに
熊本まで来いというもの
自分の夢であった箱根は走りたい
でも軍の命令は絶対
箱根を走るのは不可能に思えますが
ある工夫によって
夢であった箱根を走り切ります
その工夫とは…
どうしても箱根を走りたかった彼は
急きょ第一走と交代し
襷を渡したあとそのまま
熊本行きの列車に飛び乗り
戦地へと赴いていったのだそうです
その出来事の翌昭和15年
箱根駅伝の中止が軍部から申し渡されます
ここは戦争に必要な物資を運ぶ重要な道である
兵隊さんがお国のために戦っているときに
そこを走るとは何事か
結局昭和17年までの3年間
箱根駅伝は開催されませんでした
ところが箱根を走りたいという選手の熱意が
昭和18 年ついに軍部を動かします
戦禍が激しくなって来ている中
そんなことは不可能に思えますが
大会の運営方法に工夫を加えることで
箱根駅伝が復活します
その工夫とは
スタート地点とゴール地点を
靖国神社に変更したのです
我々はお国のために走るのです
靖国を飛び立ち
そして靖国へと帰って行くのです
そう軍部を説き伏せたそうです
どんなに困難な場面であっても
工夫次第で道は拓ける
箱根駅伝にまつわるふたつの話は
このことを教えてくれています
今輪島市は復興に向けて歩き始めました
道のりは遥か遠いけれど
工夫を重ね歩んでいきましょう
立ち上がれ!輪高
今、石川県は大変な状況になっています
とりわけ輪島市は地震による倒壊に加え
大火災によって
住む場所を失った生徒がほとんどです
1月2日(火)震災後初めて学校に入りました
あまりの酷さに絶句
私は教師として真の教育とは何か
常に問い続けて来ました
ある時ある先生の教育実践に出会い
その時から
これが真の教育であり
教育の原点だと思うようになりました
それ以来そうありたいと思い
これまでの教員生活を送って来ました
これは心の中に思い続けるものであり
決して退職するまで
他人に話すことはないだろうと
思っていたものなのですが
その先生の教育実践とは
お名前までは覚えていませんが
戦後の焼け野原で子供達を集め
何にもない広場で
教科書もノートも使わずに
どんな時も学ぶことを止めてはならない
そう語りかけ
子供たちに希望を与え続けた先生の
エピソードです
教師がチョーク一本で
語りながら板書し続けて
生徒はひたすらそれを書き写す
そんな授業スタイルを
「チョーク&トーク」といって
昭和を代表する時代遅れな教育と
最近では揶揄されることも多いのですが
ICT機器など最新の教育機器が
使えないような状況になったとしても
チョーク一本で
どれだけ子供達を惹きつけ
希望を持たせる授業ができるのか
これこそが
「チョーク&トーク」の真髄だと思います
このことを常に考えて
自分の授業を磨き続けてきたつもりです
輪島市は今
ウクライナの戦場の様相を呈しています
でもそんな中でも
決して学ぶことを止めてはならない
それを生徒たちに伝えたい
強く強く心の底からそう思います
一日も早い学校の再開を目指します
どんな状況からでも
輪高は立ち上がります
生徒のみなさんは
学校再開のその日まで
自分で学び続けていてください