校長室より「おこらいえ」

岐阜総文レポート(1)

217日目

 

2027年

第51回全国高等学校総合文化祭が

石川県を舞台に開催されます

3年後に迫った大会の準備を

石川県の高文連で進めています

その下見のために

「清流の国ぎふ」文化祭に来ています

 

 

 

 

 

 

 

まずは関ヶ原古戦場の巡見をして来ました

関ヶ原の戦いとは

豊臣家を守りたい石田三成軍と

新しい世を創りたい徳川家康軍との戦い

天下分け目の戦いと言われるほどの

日本の歴史において大きな意味を持つ戦いです

 

 

 

 

 

 

それほどの戦いであるなら

何ヶ月何年にも及ぶ戦いであるような印象を

勝手に持っていましたが

意外や意外わずか6時間で勝敗の決した戦です

 

勝敗を決するには

3人の武将の心の葛藤があったということを

今回学びました

 

ひとりめは小早川秀秋

三成軍の小早川秀秋は

合戦が始まって4時間後

突然家康軍に寝返りました

秀秋は秀吉の養子

かつては秀吉の後継者として

将来を嘱望されていたのですが

秀吉に待望のお世継ぎ秀頼が産まれてからは

ないがしろにされて

挙句の果ては小早川家に

養子に出されてしまいます

こうして見ると裏切りというより

寝返るには余りある理由があるなという気がします

人の心は時代を超えても変わりません

 

ふたりめは島津義弘

義弘は合戦前夜

奇襲を仕掛けるよう三成に進言します

ところが三成は

その作戦をけんもほろろに相手にしないどころか

義弘を罵倒します

結果翌朝合戦が始まっても

義弘軍は動こうともせず三成の指示に従いませんでした

このことは現代にも通じるものがあると思います

部下がいろいろ考えて提案したことに対し

どんな稚拙な提案であっても

決して頭ごなしに否定してはいけません 

動かない義弘軍は結局

他の軍が壊滅状態になって孤立し

撤退を余儀なくされます

そのとき単に逃げるのではなく

敵の真ん中を突っ切って逃げます

つまり敵陣を正面突破して退却します

これは後に戦法「捨て奸」(すてがまり)とよばれる

味方を犠牲にして追撃隊を食い止める壮絶な策でした

 

3人目は毛利秀元

家康軍の背後に位置された秀元軍

元々は家康軍に動きがあった時に

挟み撃ちにするための軍でした

ところが家康軍が最初の陣から

三成軍に攻めに入っても

一向に動きがありません

秀元が動かなかったのを見て

小早川が寝返ったというのが

最新の学説だそうです

秀元が動かなかったのは

その前に陣を敷いていた吉川広家が

動かなかったのも一因です

秀元が広家に出陣命令を出しても

「今お昼食べてるから!」と

ほんわかした理由で断ったそうです

 

かくして天下分け目の戦いは

わずか6時間で幕を下ろしたのでした

 

ここで登場した秀秋 秀元 広家は

毛利元就「三矢の訓え(おしえ)」の

3人の息子のそれぞれ息子です

 

関ヶ原で家康が勝利したのは

毛利元就の

「3本の矢が束なれば決して折れない」

との訓えがあったからにほかなりません

しかし毛利一族の功績はさほど家康から

取り立てられることはありませんでした

 

250年の時を経て

一族の末裔の長州藩が

討幕を企てたことを考えると

人の恨みの恐ろしさ

人の評価の大切さを

しみじみと考えさせられます