校長室より「おこらいえ」
大地の子
130日目
内灘高校には
今朝も金沢近郊に避難している生徒たちが
通って来ています
ひとりまたひとりと輪島に帰り
今では20人くらい
この後も
仮設住宅などの環境が整い次第
生徒たちは帰って来ます
私の父方の祖父は昭和の初め
中国は青島(チンタオ)にあった
日本人学校の校長をしていました
多くの日本人が暮らし
豊かな生活を送っていたようです
祖父も
父を含めた5人の子と妻で
幸せに暮らしていました
ところが状況が一変します
ソ連が宣戦布告し
侵攻を開始したのです
ひとりまたひとりと日本へ帰り
生徒が減っていきます
最後に全校の生徒が
父の兄弟5人だけとなったところで
学校を閉じることとなりました
「ここは危険だから
お前たちは先に北京に向かい
そこで待ちなさい
私は残務が終わり次第追いかける」
祖母は5人の子を連れて
一旦北京駅に降り立ちますが
「死ぬなら一緒に」
思い直して
もう一度折り返しの列車に
乗り込んだのです
そのときです
天皇陛下の玉音放送が流れたのは
一瞬の判断で乗り込んだ列車が
北京から青島へ向かう
最後の列車となりました
もしその時一瞬の躊躇があったら
家族が再び逢うことがなかったし
日本に帰れることはなかった
父は残留孤児として過ごすことに
だとすれば
今私はこの世に存在していません
映画のような
でも実際にあった話です
じいちゃん
あの時あなたはどんな気持ちで
子供たちを日本へ送り返していたのですか
あなたの孫は
全く逆の立場で
引き上げてくる子供達を
待っています
青島日本中学校校舎
青島日本中学校校歌