校長室より「おこらいえ」
「みちのくひとり旅」その参
地震から 700 日目
震災遺構 荒浜小学校へ行ってきました
荒浜は仙台の東
太平洋に面した地区です
当時10m ほどの津波に襲われました
こちらが
生徒教員含め320名の住民が避難した
荒浜小学校
写真左側2階のベランダに
「ここまで津波が来ました」の表示が
非常階段を見ると確かに2階と4階で
明らかに被害が違います
3 月11日 14:46
1~3年生は下校途中で
4年生以上が校舎で授業中でした
地震がおさまってから
全員を4階に避難させましたが
津波の襲来に伴い
避難してきた住民とともに屋上へ
3 月11日 17:30
救助のヘリが来ました
ちっちゃい子どもとお母さん
小学生 中学生 高校生 大人の顧番で
救助してもらうことにしました
真っ暗な中で屋上から
一人ひとり吊り上げられました
高学年の児童が
低学年の児童の面倒を
しっかり見たそうです
3 月12日 5:00
中学生高校生の救助が始まりました
その後ヘリが来なくなり
籠城の準備を始めたそうです
お昼頃消防団が歩いて来たので
誘導に従い
ひざや腰まで水につかりながら
50名ほどが歩いて避難しました
ヘリではペットが避難できなかったため
ペットと一緒の人は徒歩での避難を選びました
3月12日 午後
水が引いたため
ヘリが地上に着陸できるようになり
残っていた人全員の非難が
ようやく終わりました
荒波地区には
津波から住民や街を守るための
様々な工夫がされています
全長9km におよぶ堤防を
国・県・市が分担して整備しました
想定を上回る規模の津波が来ても
堤防が破壊・倒壊するまでの時間を稼ぎ
全域に至る可能性を少しでも減らす
構造上の工夫が施されています
潮害・風害・飛砂を防ぐ海岸防災林は
津波到達時間を通らせる効果も期待できます
2014(平成26)年から植林を開始しました
震災前の海岸防災林に戻るのに
数十年かかると言われています
沿岸部を南北に走る県道102kmにおいて
約6mの嵩上げ道路にしています
震災で発生したコンクリートくずや
津波で運ばれてきた土砂を活用しました
道路に堤防の機能を持たせます
このようにさまざまな設備を
組み合わせて防御することで
津波による被害の大幅な軽減を図っています
校舎の方は
防災教育の拠点として活用されていました
音楽室がシアタールームに
映像アーカイブが流されています
児童たちの作品も展示されています
こちらは輪島高校でもしましたね
思い出の場所旗立てワークです
あの時のまま止まった時計
校庭には
二宮金次郎さんの像が倒れたまんまでした
江戸時代に農民の子として生まれた金次郎は
朝暗いうちから夜遅くまで
汗と泥にまみれて一生懸命に働きながら
わずかな時間も無駄にせず勉強をしました
荒れ地を耕して米を作り
余った米をお金に変え
お金が貯まると土地を買いました
そして一生を世の中のために捧げ
大飢饉で困っているたくさんの人々を
救ったのです
その姿を見習いましょうと
マキを背負いながら勉強している像が
日本中の小学校に建てられました
その頃日本は
尺貫法からメートル法に
切り替える時期だったので
子供たちがメートルをイメージしやすいように
像の高さを1m に統一したそうです
『尺』は長さの単位
『貫』は重さの単位です
1尺は親指と人差し指を開いて
2歩測った長さで
だいたい30cmです
それを10等分したのが1寸なので
一寸法師の身長は3cm
キティちゃんの身長が
リンゴ5個分なので
それより小さいです
このように昔の単位は
人のサイズが基準になっていることが多いです
大人が両手を伸ばした長さより
少し長いのが1間
ヒトが両手を伸ばした長さとpy
その人の身長はほぼ同じなので
1間はヒトがひとり余裕を持って
横になれる長さということになります
海外でもことは同じで
1フィートはつま先からかかとまでです
約 30cm なのでやはりヨーロッパ人は
でかいですね
3フィートで1ヤード
これは腰回りが由来であるという説があります
ところで北極から赤道までの距離を測ると
ピタリ1000万m になります
これは偶然ではなくて
もともと
子午線の距離の1000万分の1を
1m とすると決めたからなんですね
水がちょうど0℃で凍って
ちょうど100℃ で沸騰するのと同じです
この定義は
パリの科学アカデミーが1799年に
パリを通る子午線の一象限の 1000万分の1の長さ
を1m と定めたもので
最初の『国際メートル原器』
つまり1m の基準となる「ものさし」
もその時作られました
その後作製された白金-イリジウム合金製のものが
1889年の第1回国際度量衡総会で
世界的に承認され
その時作られたものが
メートル条約全加盟国に配布されて各国原器とされました
日本のものは No.22
「産業技術総合研究所計量標準総合センター」
に保管されているそうです
その後
「メートルはクリプトン 86原子の
準位 2p10 と 5d5 との間の遷移に対応する
光の真空中における波長の
165万 763.73倍に等しい長さである」
と定義が変わり
現在では
「光が真空中で
299,792,458分の1秒間に進んだ距離」
となっています
東京ドーム何個分の方がわかりやすいですね
世界中にはまだまだ面白い単位があって
古代ローマでは
牛1頭が1日に耕すことのできる面積を
1モルゲンと言います
ドイツ語勉強している方はお分かりですね
英語の Good morning に相当する
グーテン・モルゲン
朝(Morgen)の語源となっています
ちなみにドイツ語では
文頭でなくても名詞の頭は
大文字で表記します
膨大な単位に『グーゴル』があります
1グーゴルは10の100乗です
日本語で表すことができる最大の数は
9999無量大数9999不可思議9999那由多
9999阿僧祇9999恒河沙9999極
9999載9999正9999澗9999溝
9999穣9999秭9999垓9999京
9999兆9999億9999万9999
10の70乗程度なので
一体何に使う数字か?
という気がします
ちなみにGoogleは
グーゴルの綴り間違いに由来する
と言われています
話があちこちに飛びましたが
最近では
金次郎さんが歩きながら勉強する姿は
歩きスマホを助長するとか言って
座って勉強する像に作り変えられているそうです
「みちのくひとり旅 」その弐
地震から 699 日目
東日本大震災を生き延びた方が
どんな思いで復興への道を歩んできたのか
その生の声を聞きたくて
ホテルではなく民宿に泊まりました
気仙沼の民宿『天心』さんは
昔船乗りをリタイアしたご主人が
震災前に始めた喫茶店がそのルーツ
復旧工事関係者の宿泊施設がないということで
民宿に変えたそうです
サンマの刺身やマンボウの腸にツブ貝
気仙沼の新鮮な海の幸をいただきました
当時のご苦労などをお聞きし
元気をいただきました
「おかえりモネ」の舞台気仙沼
付近の町とはBRTでつながれています
BRTつまり
Bus Rapid Transit(バス高速輸送システム)
バスを基盤とした次世代公共交通システムです
渋滞に関係なく
鉄道と同じくらい時間に正確な運行ができます
様々な工夫がされています
渋滞の影響を回避するため
廃線となった鉄道軌道跡等を利用した
専用レーンを走る区間があります
一般車両は走ることができないので
1車線のみ
単線鉄道のように駅ですれ違います
交差点ではバスの通行に合わせて
遮断機が動作します
トンネルなんかも1車線
高速道路を利用する区間もあり
一般道を走る際は
バスの接近に応じて
優先的に信号が青になります
鉄道に比べて整備費用が安く
導入までの期間も短いという利点があり
東日本大震災で被災した
気仙沼線や大船渡線の
復旧までの代替手段として
採用されています
陸前高田の『奇跡の一本松』
見てきました
震災前この場所には
約7万本の松林が広がっていましたが
大津波により
ほぼ全ての松がなぎ倒されました。
その中で
唯一津波に耐えて残った一本の松が
『奇跡の一本松」と呼ばれ
希望の象徴となりました
現状は残念ながら
地盤沈下による海水の影響(塩害)で
翌年枯死が確認されました
しかし復興の象徴として後世に残すため
幹に防腐処理を施すなど保存整備が行われ
モニュメントとして元の場所に立っています
実は輪島朝市の焼け跡にも
『奇跡のタイサンボク』
がありまして
震災直後から
炊き出しで地域の食を支えてきた
ミシュラン一つ星のフランス料理店
「ラトリエ・ドゥ・ノト」のシェフ池端隼也さんが
震災後の春に
この木に芽が出てきたのを見て
新たに居酒屋を開店する際に
1 本だけ残ったこの木が芽吹いたように
輪島市の復興の芽となることを期待して
店名を『mebuki』としました
手前の建物は『陸前高田ユースホステル』
この建物が根元にあったおかげで
一本松は残ったのだと考えられます
こちらは水没した松の根株群
元々この松林は
江戸時代にたったひとりの翁が
防災のためにと私財を投げ打って
植林されたものだったそうです
翁の志を引き継ぐべく
新しい松林が植林されていました
これも震災遺構です
なんだと思いますか
復旧工事のための大量の土砂を運搬する
ベルトコンベアーの橋の橋脚です
この橋のおかげで
トラックの運搬だけだと9年かかる
と試算されていた工期が
わずか1年半に短縮されたのだそうです
工事が終了しても
住民が「残して欲しい」と
感謝を込めて残すことにしたのだそうです
震災遺構『気仙沼中学校』です
誰かが亡くなられた場所が
『震災遺構』になることは基本ありません
この中学校も死者ゼロでした
当時の写真がこれです
震災の1年前に赴任された校長先生が
実際に避難場所まで歩いてみて
これでは危険だと
避難場所を設定し直して
避難訓練を徹底したことが
生徒全員の命を守ったのです
『東日本大震災津波伝承館』を訪れました
鉄橋の切れ端です
1cm以上もある分厚い鉄板が
引きちぎられています
被災した消防車です
主査の須貝 翔 先生に
案内していただきました
高校の先生をされているのですが
教育委員会からの出向という形で
震災の伝承をされているそうです
とても良い制度です!
須貝先生から
素敵な詩を紹介していただきました
「人はみんな過去を持ち
現在があって未来がある
その時々に出会いがあり
別れがある
風の電話はそれ等の人と話す電話です
あなたは誰と話しますか
それは言葉ですか
文字ですか
それとも表情ですか
風の電話は心で話します
静かに目を閉じ
耳を溢ましてください
風の音が又は浪の音が
或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい
想いはきっとその人に届くでしょう」
伝承館のある祈念公園は
高い防波堤に守られています
防波堤に登ると献花台がありました
未来に向けて大切なことを伝えていく
その思いを新たにしました
「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館 」です
予約を入れてガイドツアーしていただきました
ガイドは元中学校の菅原校長先生でした
ここは元々水産高校だった場所です
津波の跡そのままの部屋
3階の教室には流された車が
校舎の間には何台もの車が
当時は濁流が渦巻き
洗濯機のようだったそうです
流されてきた冷凍倉庫がぶつかった跡
つまり屋上近くまで水位が上がったのです
その日は入学試験があった翌日
生徒は全員避難したのですが
一部の先生は入試の答案を
3階4階へ運ぶために残ったそうです
その結果無事合格発表まで
こぎつけたのだそうです
それを指示された校長先生には
敬意を表します
私だったらできないと思います
命よりも大切な紙切れなんかあるか
と思うからです
どちらが正解かはわかりません
逃げ遅れた先生方は屋上に避難しました
屋上への出入り口は通常施錠されています
何という判断力でしょう!
校務員さんがこんなこともあろうかと
逃げる前に鍵を開けておいたそうです!
下は避難した屋上の写真です
津波は屋上に迫る勢いでした
「女は電柱の上に登れ!
男は手すりにしがみついて耐えろ!」
と指示されたそうです
でも女性の先生方が
電柱に登れるはずもありません
そこにもうひとつの奇跡が
一緒に屋上に避難してきた方の中に
学校の工事に来ていた方がいて
ハシゴを持って避難して来ていたのです!
先ほどの写真の左手奥の建物の上に
全員避難できたのです
引き波で水が引いたのを見計らって
全員4階のじゅうたんばりの部屋へ移動しました
教室からカーテンを引きちぎってきて
寒さをしのぎました
見ると津波で流されてきた家が
校舎に引っかかっていました
一階部分はありません
声をかけると
中に女性がふたり
真っ暗闇の中
先生方は
「明るくなったら助けに行くからね!」
「頑張って耐えて!」
夜が明けるまで交代で声をかけ続けたそうです
翌朝先述のハシゴを使って無事助け出しました
いろんなことを学ばせていただいている旅です
気仙沼でちょっといい感じの
写真が撮れました
「みちのく一人旅」その壱
地震から 698 日目
始発列車で仙台に向かいます
海に浮かぶ小さなガラス箱
日立市出身の建築家である
妹島和世氏の設計による日立駅は
美しい駅ランキングで
東京駅 京都駅 金沢駅などと並び
必ず上位にランクインします
太平洋を一望できるロケーション
「展望スペース」からは
美しい朝日を見ることができ
絶景スポットとして人気を集めていますが
何せ出発が夜明け前でしたので
こんな感じです
今度来る楽しみができました
東北大学で開催されている
「世界津波の日」
"World Tsunami Awareness Day"
高校生サミットに参加しました
国連防災事務総長特別代表兼国連防災事務所長の
カマル・キショア氏より
ビデオメッセージが送られました
前方の座席にはヒジャブを被った
イスラム女子高生が座っています
彼女らに限らず
民族衣装を纏った高校生が
それぞれの国を見舞う災害と
その対策について発表し合いました
国際色豊かな会議です
来年はぜひ着物で参加しようと思います
さて週末を利用して
東日本大震災の震災遺構や
復興の様子を見て回るつもりです
まずはNHK仙台放送局を訪ねました
当時を伝える貴重なアーカイブを
見せていただきました
どんな大地震でも放送を続けることのできる
最新鋭のスタジオにも
入らせていただきました
見よこのミーハーぶり
次に平泉へ行ってみました
内陸にある平泉自体は
被害はさほど大きくなかったようですが
世界遺産に登録された毛越寺(もうつうじ)
仏の世界を表現した「浄土庭園」の池にある
趣深い傾いた岩「立石(たていし)」が
余震のたびに傾きが増したので
布を巻き付けたうえ添え木をして
倒れないように守ったのだそう
中尊寺は一部の建物の壁が壊れるなどの
被害を受けました
表門は柱が傾くなど被害が大きく
本格的な修理のための
クラウドファンディングをしています
発災時は
避難所として被災者の受け入れも
おこなっていたそうです
世界遺産であっても
非常時はそうなるのですね
次に一関に行ってみました
『祭畤橋(まつるべばし)』の
崩落事故がありました
橋脚の地盤そのものが
11mにわたり
地すべりを起こしたことが原因でした
崩壊した橋はそのまま
「災害遺構」として保存されていて
整備された周辺の公園から
見学する事ができます
一関市街地には磐井川が流れます
太平洋から86kmあるので
さすがにここまで
津波は遡上しなかったようです
川のほとりには
N.S.P メモリアルがありました
ここから見える夕暮れの風景が
名曲「夕暮れ時はさびしそう」
の舞台だそうです!
N.S.P は一関工業高等専門学校の同級生の
フォーク・グループです
ギターを形どったベンチに
上品な女性が腰掛けていらっしゃったので
声をかけてみました
昨日は中村貴之さんの命日だったそうです
同じく既に亡くなった天野滋さんの
実家も教えていただきました
平賀和人さんはご健在で
今も草野球に夢中なんだそうです
私が初めてギターを弾けるようになったのは
N.S.P の「八十八夜」でした
仙台と茨城県でそれぞれ
地震から 697 日目
東北大学で
世界津波の日高校生サミットが
開催されています
以下現場の岡本先生より
「本校からは2名の生徒が参加しています
英語でのプレゼン発表は
緊張のためか少したどたどしかったですが
適度に笑いを取り
聴衆の方々には
輪島のことにも
興味を持っていただくことができました
生徒2人はとても頼もしく
学校に戻ってからも
今回の経験を他の生徒たちに広めてくれそうです
それぞれ「もっと英語話せるようになりたい!」
と思ったようで
これをきっかけに
たくさん練習してもらおうと思います」
さて私はといえば
茨城県県北高等学校からのお招きを受け
お話をさせていただきます
移動の新幹線
新幹線のトイレには
男性用小便器の他に
女性専用と男女兼用があります
見ると女性の長蛇の列が…
男女兼用が空いてるのに…
ひとりの女性が男女兼用に入るや否や
嫌な顔をして出てきて譲ってくださいました
入ってみると
「これか…」
立ってするもんだから
あっちこっちに溢れています
こっち使う時は座ってしましょ
自分が汚したと思われたら嫌なので
掃除して出ました
風味豊かな「笠間の栗」を贅沢に使用した
極細モンブランが人気です
注文を受けてから目の前でクリームを絞るので
栗本来の香りと食感を楽しめます
そのため「賞味期限5分」だそうです
道の駅かさまの笠間モンブラン
がおすすめというテレビ番組を見たので
お昼はそれにしようと思いましたが
時間が無くて断念で残念です
講演開始まで時間があり
野口雨情記念館を訪れました
『赤い靴』や『シャボン玉』
で知られます
『シャボン玉』は
裏付ける資料こそ残ってはいませんが
生後数ヶ月で亡くした我が子へ
歌ったものだそうです
そう思って聞くと2番の詩
悲しく心に響きます
「シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
飛ばずに消えた」
入口の雨情像の前に立つと
曲とともに
シャボン玉がいっぱい飛ぶ仕掛けが
さて昨日紹介した「学び舎ゆめの森」のように
個別最適な学びを重視した設計の校舎が
全国的に増えてきています
SSRが多くの小中学校で取り入れられています
SSR「スペシャルサポートルーム」は
教室に入ることが難しい児童生徒のための
「心の居場所」であり「学びの居場所」です
石川県の小中学校では半数以上の学校に
設置されています
ひとりで学習に集中できるブースや
寝転んだりトランプで遊んだりする
畳のスペースがあったりします
今思い出すと
自分の娘たちにとって
じいちゃんばあちゃんの家が
この役割を果たしていました
ところが子供が来なくなるSSRが
最近増えているそうです
ある中学校では
校長が巡回してきて
「教室で勉強しなさい」
と繰り返し言いました
不安を拭えず
ぬいぐるみを抱きしめていた女生徒には
「中学生にもなって」と…
結局その子たちは教室に戻るどころか
とうとう学校に来れなくなりました
「せっかくほっとできる場所だったのに」
支援員は肩を落としました
誰も来なくなったSSRは
ついに閉鎖されたそうです
学校の方では期末考査が行われています
インフルエンザの流行により
先週末は学年の半分ほどの欠席で
学年閉鎖及び考査の延期も
視野に入れていましたが
みなさんの蔓延防止の意識高く
予防に努めていただいた結果
欠席者は最小に収まっているようです
欠席しているみなさんは
考査を欠席したことだけを理由に
成績が不利になることはありません
その点は心配しないで
元気になることに専念してください
さて以前にもこのブログに書いた
「最後のひとつが思い出せない」問題
今日直面しているのは
「接待の5せる」です
思い出せたのは
『食わせる』
『呑ませる』
『◯◯せる』
『威張らせる』
3つめは社会通念上問題があるので
伏せ字です
冒頭にも書きましたが
茨城県県北高等学校校長会のみなさまから
本日お招きいただき
お話をさせていただきました
みなさん東日本大震災当時は
学校の中核として
生徒の安全確保
そして教育の再開に向けて
ご活躍されていた方ですので
当時のことを思い出されながら
真剣に聴いてくださいました
自己主張が限りなく下手な能登の人間は
黙って耐えていますが
とある県の知事からは
「今回の復旧が前例になってしまうと
他の地区に起こった際に
同じような扱いをするぞと
宣言されたようなものである」
と危惧なさっています
阪神淡路大震災の際には
倒壊した家屋の処理費用も自費負担でした
我々が今回当然のように受けた
「公費解体」の制度は
その時の方々が
声を上げてくださったおかげなのです
であるならば
今私に課せられた使命は
今回の地震で思い知らされた負の側面も含め
多くの方に伝えていくことであると
思っています
つい最近誰かに聞いた話ですが
「能登」って
「能く登る」って書くんですよね
今回何千年に一度という地殻変動で
4mの土地の隆起が見られましたが
地質調査の結果
能登半島は
土地の隆起の連続で形成されたものである
ということがわかっています
地名の由来を調べると
その土地の災害リスクを予測することができます
大阪の「梅田」は元々「埋め田」
田んぼを埋め立てた土地なので
地盤が弱く液状化が危惧されています
講演会の後
懇親会もご一緒させていただきました
思う存分
『食わせて』
『呑ませて』
『威張らせて』
いただきました
学び舎 ゆめの森
地震から 696 日目
しばらく連載をお休みしていた間
何をしていたかというと
まずは東北へ復興を学びに行ってきました
今日ご紹介するのは「学び舎 ゆめの森」
福島県双葉郡大熊町にあります
ここは東日本大震災震度 6 強を観測
死亡者 53 名を出す被害を受けました
さらには福島第一原発の事故により
立ち入り禁止区域に指定されました
そのうち特定復興再生拠点区域は
2022年に避難指示が解除され
通行証なしで自由に出入りできますが
宿泊はできません
一方で帰還困難区域は
依然として立ち入りが禁止されており
国の許可なしに立ち入ることはできません
そんな中で
子どもたちの学びの場を確保するための
並々ならぬ努力がありました
そして今では
認定こども園での「あそび」と
義務教育学校での「探究」をつないだ
遊びの中から多くを学び
子どもと大人が一緒になって
みんなで未来を紡ぎ出す
そんな魅力的な学校になって
全国から子どもたちが
集まってくるようになりました
玄関をくぐると目に飛び込んでくるのがこれ!
図書館です
石川県の方
どこか見覚えありませんか?
石川県立図書館「ビブリオバウム」を
参考にしたそうです
毎朝ここで全校生徒が集まって朝礼します
チャイムは鳴らないそうです
自分たちでタイムマネジメントします
実は輪島高校も昨年からチャイムを止めまして
生徒も教員も時間に厳密になり
チャイムが鳴っても廊下でザワザワという
以前のようなみっともない姿は
見られなくなりました
教室の形はいろいろです
四角い教室はありません
そしてふたつとして同じ教室もありません
こんな隠れ家のような教室や
こんな寺子屋のようなお座敷教室も
こちらは音楽室
一段高く設計されています
普段は壁で仕切られていますが
このように壁を取っ払うと
演奏会ができるステージになります
楽器庫はガラス張り
楽器がオブジェになっています
のんびり読書のできるスペース
こちらは職員室の入り口
対面型のテーブルが設置されており
子どもたちが質問できる
スペースになっています
校庭に出ると
大阪・関西万博の大屋根を思わせる
吹き抜けと回廊
校庭でお米を作っています
自分たちで育てたお米で
調理実習しています
こんな素敵な学校ですが
校舎が完成したのはごく最近
それまではずっと間借りしていました
先生方は
被災したこの地で
子どもたちにどんな力をつけるのか?
そんな姿になって欲しいのか?
そのためにどんな学校が必要か?
そのことを徹底的に議論し続けたそうです
「最初に箱物ありきでは
うまくいかなかった」
校長先生はそうおっしゃっていました
その時の議論のホワイトボードをそのまま
一室に残してありました
魔法のように突然素晴らしい学校が
できあがるわけでは決してありません
そこに至るまでは
学校と保護者そして行政が一緒になって
子供達の将来を真剣に考える
プロセスが必要なのです
「学ぶ環境が整っていない輪島にはいられない
一家転住して転校させよう」
と考えている小中学生の保護者の方は
一歩立ち止まって考えていただきたいのです
環境さえ変われば勉強するようになるのですか?
与えられる学習環境を待つだけでよいのですか?
子どもたちの将来を
親も一緒に真剣に考えざるをえないこの環境こそ
子どもたちに本物の力をつけさせるチャンスです